3、日本人の発展の力学3章―もう少し日本を考える
3、もう少し日本を考える
150gの重い脳?
日本の文化ということでいえばね、そこにはやっぱり国土が狭いという制約があったのではないかと。だから国土以外のものを広げなければならなくなったというね。
-え、なんですか、国土以外のものって?
だからそれが意識というかね。意識の広がりにつながっていくという。さっきも言ったように、脳の発達のしかたが対立を超えた方向に向かうようになるとかね。これは意識の広がりですよ。
-意識の広がりでうか。わかるような、わからないような(笑)
ある研究では、日本人の脳は平均して他の民族よりも150g思いということをいう大学教授もいるし。
-うん・・・。僕にとってはそういう研究って、もちろん実際に数字が出ている以上はちゃんと研究されているんだとは思うんですけど、日本人が提唱している理論である以上、なんか判官贔屓に聞こえる部分があるんですよね。
(笑)一條さんのスタンスというのはいつもそうですよね。
―いやー単に、思い込みみたいな情報を宛てにしちゃうと、「ごめんごめん。やっぱりさっきの間違ってたわ」と言われたときにどうしようもなくなるから(笑)ビジネスの世界だったとしたらそれで会社がつぶれても誰も助けてくれないですからねぇ。
まったく正論ですね。
―まぁ、僕に限って言うとそう思うんですよね。そんな話は置いておいてですよ(笑)
そういう「脳が重たい」と言われている他の民族はいないんですか?例えば日本語とおなじように、1万年を超えて使われ続けている言語を日常語にしているポリネシアとかあるじゃないですか。彼らの脳も重くなっている可能性はあるんですか。
あるんじゃないかと思いますよ。東京医科歯科大学御の角田忠信という先生は「ポリネシア人の発送は日本人と発送と非常に近い」と言っています。もう40年くらい前にね。
―ふーん。じゃあもし仮にですよ、日本語と同じような母音優位の言語を使っているポリネシア人も同じように脳が思いと家庭すると、対立を超えた方向に意識が無垢のは、母音優位の言語を使っているからだということになるかもしれない?
その可能性はあるかもしれませんね。
―僕、なんかものすごくあてずっぽうなこと言ってますけど(笑)根拠はないです、もちろん。
(笑)でもけっきょく、母音が中心になっている言語は階層性という観点で見た時にわかりやすいんだと思いますよ。
―階層性がわかりやすい?
そうそう。音声学的に言えば、「あいうえお」という五つの母音は全部、「あ」はずっと「あ」だし、「い」はずっと「い」だし、「う」はずっと「う」だし、「え」はずっと「え」だし、「お」はずっと「お」でしょう。
ーえ?音って全部そうじゃないんですか?
ちがいますよ。日本語dめお最初の音hあなんであれ、最期に「あいうえお」のどれかに変化していくでしょ。
ーああそうか。子音と母音の組み合わせだから。
そう。
―先生流にいうと子音と子音と母音だけど。まあ、例えば「か」というと最初は「K」の音から始まるけど、すぐに「あ」という音に切り替わっていっちゃうと。
うん。母音の階層性が非常にはっきり出るでしょ。
―そうですね。でも、階層性がはっきりしていると何かいいことあるんですか?
階層階層性がはっきりすると、音と言葉の意味が湧けやすいというのかな。音が分けやすいから。
―ほう。
分けることができるというのは、何かを理解しようとするときにはとても大事なことだからね。ほら、物事がわかるというのは、「分かる」だから。分けることができるということが理解につながるということですよ。昔から「事分ける人」というでしょ。
―なるほどね。「あかさたな」と「いきしちに」は明確に違うよと。
そうそう。母音がはっきりしていると、言葉の分類が非常に明確になるでしょう。
―確かにそうですね。
そうやって分けていくと、最期には周波数にまで落とし込むことができると。
―そこにつながるわけですか。
うん。だからロゴストロンという機械になった。
※フランス語でもベンガル語でも
―ロゴストロンという機械に戻るとですねあれは周波数の発信器ですよね。「言葉によって脳の中に起こる周波数」を人工的に発信する機械ですもんね。
そうです。
―それで、発信する周波数を確定する時点では、母音と子音と父音に音の要素を分解して、それぞれの要素が脳に到達したときに脳の中で起こる反応というか、波を切りだしたわけですよね。
そうです。
―ということは、今や、あの機械で周波数を発信する対象になる言語というのは、日本語じゃなくてもいいわけじゃないですか。
そう。英語でもフランス語でもベンガル語でも大丈夫。
―今やそういう状態になったわけですけど、あの機械ができたもとのきっかけとしては、日本語があったから開発しやすかったんだということですか?
そうだと思いますよ。
―なるほどね。今となってはもうどの言語でも関係ないけど、最初にあの機械の設計というか、コンセプトが生まれたもとには、日本語という言語どう発信するかという思考があったと。
そうです。だから、それこそ前の本に書いた話だけど、韓国の学者さんが日本人のことをうらやんだという話があったじゃないですか。
―はい。
日本人がノーベル賞を比較的多くとれてきた土台には、科学や化学のテーマを母国語で考えることができるからだという話。あの話と似ているとも言えますよね。
―はいはい。日本語が研究の対象だったから、音を切り分けて、その音御影響を周波数として切り出すという糸口もみつかったと。
そうそう。
―ある意味で、ヘボン式ローマ字もものすごく役に立っているわけですよね。
そりゃあもう、すごく助かっているわけです。
―じゃあヘボンさんに感謝しないとね。
本当に。
※ダジャレの効用
―日本語の特性というとね、先生。前の本でも書いていらっしゃいましたけど、同音異議語がものすごく多いという特性もありますよね。
はい。
―先ほども、「あめ」という音が「雨」か「天」か「飴」かを瞬時に判断しているというような話がありましたしね。
はい。
―そういうね、同音異議語というと、先生も僕も、ものすごいくだらないダジャレをいつも連発してるじゃないですか?
僕のはくだらなくはないですけど(笑)
―(笑)あのダジャレというのは、日本語の特性があるからこそ出てくるわけですよね。
そうですね。僕がね、ダジャレをいっぱい言ってみてわかることは、ダジャレを言うときには一回頭の中を探しているんですよね。
―うん。
ダジャレを言うときには、まったく同じ音で、まったく違う意味の言葉を検索して探しだして、そしてそれを発生するなり、書き留めるなりして持ち出す。脳の中ではそういう操作をしているわけです。だから脳は同時に二つ以上のものを認識しているというようなことになる。
―ダジャレの内容はくだらないのに、脳的にはとっても高度な作業をしているという(笑)
そうそう。それでね、同音異議語が多いというのは、もともとの日本語の特性でしょ。
―はい。
ということは、日本語を使っている日本人であればだれでも、無意識のうちにこういう操作をしている可能性がある。
―なるほど。
だから、人の気持ちもなんとなくわかっちゃう、というのはあるのではないkたお思うんです。日本jんは。
―どういうことですか?
つまり、同時に二つ以上のことを考えてしまうというか。同時に二つ以上のことが浮かんでしまうと言ったほうが近いかな。というのも、日本人は同じ音で意味が違う言葉に、毎日毎日たくさん触れているわけでしょう?
―はい。
そうして毎回そういう言葉を耳にするたびに、今の一連の音のつながりはどの意味の言葉を表しているのだろう?というようなことを考えるわけですよ。複数ある同音異議語の候補の中かrぁ適切なものを選びとらないと、会話が通じなくなるからね。
―うん。ある意味、脳は必死ですよね。
そうそう。日本語を話している日本人であればずっとそんな暮らしを続けているわけですから、同時にふたつとか三つとかのことが脳の中に浮かんでくるのが普通になっていると思うんですよね。
―はい。
そうすると言葉以外のこと、例えば相手の近所地とかね、そういうものに対しても複数の可能性が浮かんでくるようになるのではないかと。
―ああ。別に相手のことをわかろうとはしていないけど・・・。
なんとなくわかっちゃう。相手が自分と違う意見を持っている人であったとしても、その人の意見を共有した状態で自分の中にあるという。
―ある意味、ダジャレの効用ですね(笑)
これはすごいことですよ(笑)
※ダジャレオンパレード小説「フィネガンズ・ウェイク」
―ダジャレということで言うと、日本語の音の多さというか表現の多さというのもダジャレに一役かっていますよね。
そうですね。ダジャレの範囲は同音異議語だけではないんでね。そのひとつの音がひっくり帰ったりするだけでナンセンスな意味になったりしますからね。
―うん。
アイルランドにね、ジェイムズ・ジョイスという小説家がいたんですけどね。彼が書いた「フィネガンズ・ウェイク」という本があるんです。
ーほう。
これはダジャレのオンパレードの小説なんです。
―あ、小説なんですか。
これを翻訳するのはもう、大変という話ですが、日本語ではそれが比較的スムーズにできたという話がある。
―どういうことですか?
だからそれは、そのダジャレを、音に非常に近いところでもって、なおかつ意味を残したまま翻訳できたということです。
―翻訳する時に、例えば意味だけを追って翻訳していくと、もう音の面白さがなくなるし、かといって音だけ拾っていくと、意味が全然通じなくなるということが起こりがちだけれど、日本語の場合は比較的、意味も音も両方面白さを残したままで翻訳できたということですか?
そうそう。
―なんでそんなことができたんですか?
それは日本の文化の中にダジャレの文化があったから。
―え?そこですか?語彙が多かったからとか、そういう話じゃないんですか?
もちろん語彙が多いというのもあるし。
―それに加えて、ダジャレはダジャレとして理解できたということ?
そうそうそう。だからダジャレを構築する時に、その意味と音がわかれば、それに見合った翻訳をつくれるっていうことでしょ。もともとのオリジナルのニュアンスを崩すことなしにね。
―意味と音の面白さを理解できさえすれば、同音異議語の引き出しはいっぱいあるよと。
そう。これは日本語の大きな特徴ですよ。
―なるほどねぇ。
※言霊研究なんてダジャレみたいなもの?
ダジャレというとね、日本語というか、言霊といわれる内容の研究自体がダジャレのようなものだとみなされてきた経緯もあるんですよ。
―どういうことですか?
つまりね、「言霊研究」と呼んだ時点で学問的な研究として評価を受けられない。言霊というのは言葉遊びのようなものだと思われてきたわけです。
―そうなんですか。
うん。だから研究する人は多くはなかったのかなと思うんですけどね。だからいっそう、信仰みたいになっちゃったという経緯はあるかもしれないですね。
―ん?でも今でも言霊に関する本とか、よく出てるじゃないですか。昔から「言霊大全」みないなほんもあるし。
まあね。
―ただ僕が見ていると、そういう本の多くは著者の方の私感がすごく強かったりしますよね。だから学問としては認められないだろうなと思うところがやっぱりあるわけで。なんでなんでしょうね。なんでそこから抜け出せないんですかね。
それはたぶん、音そのものを取り上げるからじゃないですかね。
それはたぶん、音そのものを取り上げるからじゃないですかね。
―ん?「あ」はどういう意味で、「い」はどういう意味だというところにこだわってしまうということ?
そうそう。まあ、「い」が「いのち」の「い」であるとかね。そういう理解をすること自体は別にかまわないと思いますけどね。ただそういう神秘的なものは何もないというのが僕の思うところだけれど。
―今の多くの人が言葉について語る時に、よりどころにする学問は言語学だし、切り口は実際の音としての言葉だと。
そうそう。
―でも違う角度からアプローチしてみると、言葉の音を聞いた時に脳の中で起こる反応をどう再現するかという方法もあるのではなかろうかと。
そうそう。
―そんなことも考えられるよと。
そう思うんだけどね。
※カントと日本語とバイリンガル?
―そういえば先生はそもそもなんで言葉、日本語というものを研究しようと思ったんですか?
うーん。日本語を研究しようと思ったというか・・・。ナレッジモデリングという手法をね、ソフトウェア開発の分野で行っていた時に、当然、日本語を使うわけですよ。だから知らず知らずのうちにね、考えていたのかもしれない。
―でも、そうやって突き詰めてきう人は多くはないですよね。
まあ、それは哲学的に言うと、カントの言う先験的理解があるからでしょうね。
―先験的理解?
うん。日常で使っている言葉をわざわざ考えないというかね。「あ」という音があって、自分が「あ」という音を使っている状態で、なんで「あ」は「あ」なんだろうということは考えませんよね。普通は。
―確かに。
だから、言語というのは非常に面白い性質を持っていて、一回学んでしまったらその内容について考えてみることがなくなる。その言語の存在が当たり前だと思っちゃうんでしょうね。
―その言語の存在が当たり前だと思う?
そうそう。これは別に日本語に限った話じゃないですよ。英語圏の人だったら、たいていの人は、何か大きな脳の病気でもなければ、普通に英語が話せるようになるでしょう?
―まあ、そうですよね。
そうすると英語を話すことが当たり前になるから、英語自体への疑問というか探求心というのは持ちにくいですおyね。
―なるほど。
だから、言語を獲得するプロセス自体が、言語への興味を維持させないようにしているというかね。
―うーん。
人間の言語脳は構造的には、どんな言語でも学べるようにはできていると思うんですよ。けど、いったん学べちゃうと、それがどうして学べたのかっていうことをいちいち考えないでしょ。要するにただ使っているだけの話になる。バイリンガルの人が、なぜ自分が2か国語を話せるのかを自分で考えたりはしないということですよ。
―もうそこにあるものが当たり前あから、それがなぜ当たり前かを考えることもしないと。
そうそう。
―だから考えも堂々巡りをして、最終的には「まあ日本語だからねぇ」みたいなあいまいな結論に行き着いちゃうというおとですか?
そう思いますよ。
―先生はなんでそこから抜け出たんですか?
え?いや抜け出してはいないけど、それでも「あ」はなんで「あ」なんだろうかと、一生懸命考え続けたっていうことですよ。
―ふーん。それって特殊ですよね。多くの人が言葉についていろいろ考えてるけど、そういう細かなというか、具体的なところにはなかなか行き着かないですよね。
うん。確かに。
―だから「なんか、日本語ってすごいんだ」みたいな結論で終わっちゃうじゃないですか。
そうそうそう。僕は全然、日本語が特別だとかは思わないわけだけど。ただ、要するになぜ「あ」は「あ」でなければいけないのか。「い」が「い」でなきゃいけないのかっていうところを考えていったてことでしょう。
―ほう。
そうしていく中で、「い」だったらさっきも言ったけど「いのち」の「い」であるとかね。そんな取って付けたようなことをいっぱい見つけていって。最後には自分で「こういうことかな」と納得するっていうことでしょう。「い」は「い」だということをね。
―え?何を納得するんですか?
「い」は「い」だということをですよ。
―なんだか、すごく哲学的ですけど。
うん。だからね、そういう納得というか理解を、ちょうど「悟り」のようにできるかどうかということが言葉を理解しようとするときにテーマになるわけです。
―ますます難しいですけど(笑)
うーん。例えば「あー」って言った時に「あー」の音というか言葉の意味を体感できるかというね。本当に「あ」が持つ感情や情緒を自分の感情や情緒に対応したものとしてかんじられるか。感じ取れるかという話なんですけどね。
※音を使って世界をつかむ
―うーん。わかったような、わからないような。
うん。だからそういうのは、修行ほうほうがあるわけですよ。「あ」とか「う」というものを本当に自分がわかったとわかるための修行ですね。それはいわゆる言葉についての悟りのようなものですけど、そういうものが日本にはあるんです。例えば宮中なんかにもそういう伝統があって、そういう言霊の「奥伝」を許された人には奥伝書という証明書が渡される。あなたは確かに「あ」を理解しましたよ、ということが証明書として渡されてきたんですね。
―ふーん。秘伝みたいなもんですか。
そうそう、秘伝を受けた。だから悟りっていうのはそんなもんでしょう。「あ」というのは、「あ」なんだと。
―そういうのは理屈で力アするものではなくて、体幹というか体得するものだということですか。
そうそうそう。その音によって感じる全身の揺らぎを、全身をもって感じるというような意味ですね。
―なるほどね。でも一方で、そういう体験をしちゃった人はしちゃった人でまた、別の意味でにほんごを掘り下げようとはしないはずですよね。自分の中ではもうわかっちゃってるから。
そうですね。
―なのに先生はなんで堀り下げようと思ったんですか?
だから哲学が好きだったからでしょ。だからそういうものを土台にして、何かを考えるということをやろうとしたから。そうしたらまた違った世界が見えてきたという。
―違った世界?
うん。だから、世界中にあるホーリーワードみたいな声音というか。例えば「オーム」という音があったりするでしょう?そういうものもみんな同じですけど、そういう音を使って世界をつかもうとするという取り組みはいろんなところでされているわけですよ。
―音を使って世界をつかむ?
世界をつかむというのは、世界を理解する、体幹として理解するという意味ね。
―ほう。
密教では梵字というものもあるし、真言というのもあるよね。例えば大日如来という存在を表す梵字はこういう字だとかね。それと同じようなもんですよ。そういう音を発していると、その存在が発しているのとおなじような振動が出るとかね。そういう修行法もあるわけですよね。
―真言密教ですよね。
うん。だから「真言」って言うんですよ。本当の言葉という意味でね。
―正確に言うなら、真実の音って言ったほうが近い?
おー、そうだね。真音。
※宗教的な悟りとは何か?
―ちょっと話は戻りますけど、言葉はなんで対立構造から成り立っているんですか?
それはわかりやすいからじゃないですか。
―わかりやすい?
そう。
―うーん。例えば、誰かが今の自分の状態を表現しないといけないとするじゃないですか。
うん。
―その時に例えば「気持ちがいいな」と言った時には、気持ちがいいという概念を相手に伝えるためには、お互いに「気持ちが悪い」という概念も知っていないといけないということなんですか?それが言語の構造として織り込まれていると。
そうです。例えばね、身体的に言うと「快」と「深い」という状態が考えられるでしょ。そうするとたいていの人は、快という状態のほうが不快という状態よりも良いと考えますよね。
―そりゃそうですよね。
じゃあ、人間の身体にとって一番いい状態というのはどういう状態かと考えると、これは「快」という状態ではないわけですよ。
―え?違うんですか?
うん。一番いい状態というのは、実は人間が快でもなく不快でもない状態なんです。
―ほう。
つまりね、心地よく暮らしている状態というのは「ああ、心地よいなぁ」ということを感じながら暮らしている状態ではなくて、何も感じていない状態であるということですよ。
―どういうことですか?
―だからね、自分が健康だと感じるってことは「自分は不健康だ」という認識がまだひっついている状態だと言えるわけ。だから一番いい状態というのは健康でもないし不健康でもない。快でもないし不快でもない状態を感じている状態だと言えるわけ。変な言い方だけどね(笑)
うーん。
―例えば、誰かが熱を出すと「自分は不健康だ。熱がある」と認識すると。
うん。
―そのあとで熱が下がっていくと、「ああ、健康になった。よかったよかった」となると。
そう。
―その熱が下がってからしばらくは「私は健康だ」と思ってるんだけど、2、3日もすると熱が出てたこととかすかり忘れちゃって、ただ普通員過ごしていくと。l
そうそう。そういう、ねつが出てたことをすっかりわすれちゃっている状態というのがね、快でもなくて不快でもない。この状態のことを「憶」と言ってるんですよね。
―憶ですか?
そう。これは学問的な定義ですけどね。三木成夫という先生が言っていることでね。「生命形体学序説」という本にも書いてあります。
―なるほど。
だから「快」とか「健康な状態」ということは、絶えず反語とセットになっているでしょう。つまりそういう状態を感じているうちはまだ本当の意味での「健康な状態」とか「快い状態」というわけではないということになる。
―ああ。定義としてね。
そう。だから本当に調子のいい状態というか、「快い状態」「健康な状態」というのは、快とか「健康」だとかいうことすら感じないでいる状態ですよということなんです。
―なるほど。
それでね、この発想法を使っていくと、宗教的な悟りというものも全部説明がつくんですよ。
―え?どういうことですか?
つまり、対立概念を超えたところに意識を持っていくことができるということです。
※対立概念を抜ける「道」
―対立概念を超えたところに意識を持っていく?
さっきの例で言えばね、快と不快というのは対立概念でしょう。とろこが「憶」というのはそういう対立概念からぬけちゃってますよね。
―うんうん。
だから、今は「快」と「不快」の例だったけれど、「善」と「悪」という対立概念の先にも「善」でもなければ「悪」でもない概念が生まれる可能性があるでしょう?
―理屈的にはそうなりますよね。
そうそう。つまり、そういう概念をつくっちゃうということですよ。「善」でもなければ「悪」でもないという概念を。
―それは簡単に言うと「善」といわれる状態が続いている状態なんですかね?
それは違いますね。「善」を超えたところにある概念だからね。
―ああ、そうか。「善」という認知を超えたところに移動しちゃうわけだから、「善」という認知はもう怒らないということですか。
そうそう。
―この概念ですけど、なんて呼ぶんですか?
僕はそれを「道」と呼んでいますけどね。
―道。
うん。だけどね、呼び方は何でもいいんですよ。
―ほう。ということは「道」というのは、「善」と「悪」の対立概念を超えたところにある概念に対する七沢先生流の呼び方ということですか。
そうそう。それで「快」「不快」の先にあるのは「憶」。「善」「悪」の先にあるのは「道」。「好」「嫌」の先にあるのは「効」とかね。こういうふうにして、対立概念の先にある新しい概念をつくっちゃう。そうするとね、対立概念から抜け出すことができるわけでうしょ。
―なるほど。
※愛と憎しみの果ては?
例えばね、「愛」という概念とそれに対立する「憎しみ」という概念があったとしますよ。この時に一番いい状態というのはずっと「愛」の中にいることではないでしょう?
―そうなんですか?「愛」と聞くとよさそうなんだけど(笑)
「愛」という概念は「憎しみ」という概念を伴っているからね。「愛」という概念を思い浮かべる時には「憎しみ」とか「愛さない」という概念が選択しとして浮かんでいるということですよ。
―なるほどね。まぁ、その概念をなんと呼ぶかはたいして重要ではないんだけれど、大事なのは「愛」と「憎しみ」という二項対立から抜け出した概念を持っていることで。
そう。
―そういう場所に自分を置いておくと対立に飲み込まれないよと。
そうそう。
―さっきの話に戻りますけど、こういう発想法を使っていくと、宗教的な悟りも説明がつくんですか?
うん。いわゆる「悟り」というのは宗教的な情緒のことでしょう?
―宗教的な情緒?
そう。情緒的なものだと思うんですよ。実際には、身体的な悟りの部分もあるわけですから。
―「身体的な悟り」ですか?
うん。だからそれが「憶」という概念の中にいるということ。
―ああ。なるほど。悟りというのはある意味、「快」でもなければ「不快」でもないところというか、そういう対立概念を超えたところにいることであると。
そう。
―ということは、情緒的な階層でもそういう対立概念を超えたところに行き着くとことはできると。
そう。そして、その状態に達したことをもって「悟った」と言うのだと思うんですよね。
―なるほどね。じゃあ、いわゆる仏教の修行をしている人たちが「悟った」とか「悟れない」とか言っているところと実際の悟りの状態は違うのではにかと。
まぁ、本人じゃないと違うかどうかはわからないけどね。僕が言えるのは、悟りの構造というのはこういうふうになっているのではないかと思いますよということです。
―ということなんですね。
はい。
―不快ですねぇ(笑)
(笑)
4₋日本人の国の在り方4章―神道作法と「国の在り方」
4₋神道作法と「国の在り方」
※イザナギ・イザナミの物語
―先生は「コミュニケーション・プラットフォーム」を作る研究をずっとしてきたというお話でしたよね。
そうですな。面白いことにね、コミュニケーションというおとで言うとね、コミュニケーションという言葉の日本語の訳はないんですよ。
―ないんですか?
うん。だって「コミュニケーション」といっちゃうからね。
―確かに、。だけど、コミュニケーションというのは、どの人種であろうと必要なものですよね。それを定義する言葉が日本語の中にないというのは、本当に不思議ですけどね。
うん。僕は「呼応」という言葉が一番近いんじゃないかと思ってるんだけど。
―呼応ね。
うん。というのはね、神話のはじめのほうで国生みという部分があるでしょ。
―はい国生みね。
うん。そこで、イザナギとイザナミが呼び合うわけですよ。イザナミが「あなにやし、えをとこを」と言って、それを受けたイザナギが「あなにやし、えをとめを」と返す。そうしたら水蛭子が生まれる。これではいかんということで、今度はイザナギが先に「あなにやし、えをとめを」と呼び掛けて、イザナミが「あにあにやし、えをとこを」と返すとちゃんとした子供が生まれた。
こういう記述があるわけですよね。これは呼び合いですおy。だからコミュニケーションという意味で言うと、呼応という言葉が近いんじゃないかと。
―なるほどね。ちなみに、イザナギ・イザナミの国生みで言うとね、まず最初に水蛭子が生まれるじゃないですか。
はい。
―あの水蛭子というのは、何かのシンボルだと思うんですけど、そのシンボルは何を表しているんですかね?
それは「呼び合いは女性から初めてはダメだ」というメッセージですよね。
―ほう?
ある時期に女性主導の文明から男性主導の文明に転換したということでしょう。
―なるほど。そうするおt、イザナギ・イザナミの物語というのは、文化規範を伝えるための物語であるということになりますよね?
そうですね。
―そう考えると、卦局神話というものはひとつの教訓としての「におhんむかしばなし」に近いようなものであると。
うん。そんなおとぎ話と同じですよ。要はその謎が解ければなんてことはないというね。言葉がそういう謎だったというのは、私の先生たちもよく言ってたことだしね。だから全部謎解きをしていったという。
―そこだけ聞いていると身もふたもないですね。
そう思いますけどね。でも言葉なんていうのは、もともとそういうものだといいうか、言葉の研究という謎を解いていくようなものであるわけでね。それを神秘化して、信仰にしようとした試みもあったということですけどね。だから、文学的な意味の美しさというようなものを言葉の研究の主眼に置く人もいれば、言霊というような神秘性に主眼を置くという人もいるという。まぁ、いろいろな階層があるということですよ。
※伯家神道のベールをぺろり
―神話というものを神秘的なものだととらえることもできるし、言葉の謎解きの大正だととらえることもできるおyと。
そうそう。
―じゃあ、先生がやっているような神道の作法というのはどうなるんですか?伯家神道の修行は。「おみち」と言われている内容ですけど。
だから、あれも自然の中にある種の働きとコミュニケーションする作法ですよ。
―コミュニケーションの作法?確かに先生はずっと「あれはただの作法ですよ」と言ってますもんね。
うん。作法です。
―じゃあ、簡単に行ったら、そこにタンポポの花が咲いているのを見た時に「わー、きれい」と手を広げたとしたら、それが自然とコミュニケ―ションしたということであると。そしてそれを再現するために、こんなふうに手を広げてみましょうと。そうしたら、その情動が再現されますよ、という感じに近いんですか?
まあそうですね。だから宇宙というか、自然界の働きがあるでしょ。そういう働きを自分の身体を使って疑似体験できるというか、疑似体験するための作法というかね。体験できるというのが、この「おみち」の良さなんですね。だかあそれはある意味、相撲部屋の稽古みたいにやればいいんじゃないかと思うんだけど。
―相撲部屋の稽古。
うん。「みんあ、早く来い。稽古するぞ!と言ってね(笑)ゲーム感覚で楽しんでやればいいと思うんだけど。もともと相撲だって本当は神事ですからね。あれもひとつの作法ですよ。
―なるほどね。
それと同じように、身もふたもないようだけども、その「稽古」の中でそれぞれの人が、例えばある種の自然の働きを体感できれば、僕は絶対に楽しいと思ってるんでしょうよ。
―その「おみち」という作法を行っている間に、個人には特定の自然の働きに呼応するような動きが出てくると。
そうそう。身体が旋回したりね。まぁ、あんまり詳しく話すとね、これから「おみち」を体験する人が先験的理解で縛られちゃうといけないから話さないけどね。
―うん。でもそういう身体的な動きというのは、個人個人で違っていて当たり前だということですか?
うん。そうなんだけどね。でも、実際にはある特定の働きが疑似的に人間の身体の上に起こる時には、本当に動きが似ているんです。あれは人間業じゃない(笑)だから面白いわけですよ。
―人間は完全に受け身ですもんね。
そうそう。だからね、人間の形をとてね、例えばこうしてペコリと礼拝するという作法にはなんの意味もないと思うんですけどね。そうではなくて、自然のはたらきが人間の身体を使って現れるところに非常に不思議な感じがしますよね。
―なるほどね。かといって多くの人が考えているような神業でもないわけで、あえて言うなら自然業なんですか。
うん、だから、そういう自然の働きもあるし。今度はそういう、いわゆる神話の紙と言っているようないみIの働きもあるんですよ。
―階層的ですね。
そう、階層的。だからこれは面白いところですよね。
―難しいですね。ついつい、どっちなんですかっていう話になりがちですからね(笑)
(笑)
※柏手と右脳の錐体街路系
―人為的な礼拝というのには意味がないという話になると、例えば柏手を打つという行為にも意味がないということになりますよね。
うん。柏手だったら、だからそういう存在と自己がただ一つになるというような。一つの動作ですよね。
―その動作をすることで、今何かひとつになったと自分が思うためのトリガーみたいなものですか?
思うというか、そういうこと自体も言わないけども、パンとやった時に、ひとつだと体感するというような。
―うーん。深いな(笑)
うん。だから言語じゃないんですよね。簡単に言うと、いわゆる人間の右脳の錐体外路系の感覚というものを入れやすいということですよ。いわゆる「憶」というか、悟りというようなことも同じでね。それを簡単に自分のものにできる作法体系だと理解すると良いと思うんですよね。そういうひとつの身体動作と。
―作法に従うだけで、特に努力もいらないしと。
ええ。
―それこそ僕なんかだったらビジネスの世界にどっぷりですから、自分の自由度を上げるために例えば意識して「欲望を限る」というような取り組みをするわけですよ。
ほとんどの人はやってないけどね(笑)
―まぁ、なんとも言えませんけど(笑)ただ、そういう意識的な努力というか取り組みをすることなしに、そういう状態を体感することができるというのはいいですよね。
うん。とてもいいと思うんだけど。しかも体感は自分の中に残るからね。いったん経験した感覚はなくなっていったりしないから。だからそこが本当に面白いところなんだけど(笑)
※生きとし生けるものを背中に背負う
―先生、「おみち」の話をしている時って、楽しそうですね(笑)
そうですか?じゃあ一條さんがビジネスの話をしている時と同じですね(笑)でもね、今やそういうものを個人個人が体感する時が来ているんじゃないかなとも思うんですよ。国というものを個人が感じられるというかね。
―国ですか?
うん。そういう作法に従ってみると、みんなが国を感じられると。実際にこの「おみち」の作法というのは、天皇が自分の背中に生きとし生けるものすべての存在を乗せているというような感覚になるための作法なわけですからね。それが国体ということですよね。
―国体?
そうそう。国の身体。
―なるほど。
今はほら、政治家も含めて、日本という国に対する国家間というものが求めらえている時代だからね、こういう体感というのは非常に大切だと思うんですよね。
―だからもうちょっと物事や国を広い目で見て、どういう発展の仕方をさせればいいかというのを冷静に考えたら、また道が開けるでしょうねと。
そうですね。
―もうちょっと広い視点で見てみようよと。
そうです。いや、本当にみんんが住みやすいところに住んでいればいいんじゃないの、ということになればいいんですよね。
―広い目で見た上でね。
そうそう。だから、いわゆるワンワールドという思想が悪いわけじゃないんだけど、支配のためのワンワールドという意味じゃなくてね。生きている人たちみんんが自由に平等に、あるいはひとつの社会が安定した形で生きられるという方向性を目指していけばいいんじゃないのかなと思うんですけどね。
―スケールの大っきいな話ではありますがね。
まぁね(笑)でも、そうですよ。きっと。
―うん。でもまたその足を引っ張るのが二項対立であると。
そうですね。
―結局そこに戻っていって、そこが解決しない限りは何をやっても難しいという話ですか。
そうですね。まあ、いつも使っている言語自体にも二項対立の要素が織り込まれているわけですからね。
―対立させるように、対立させるようにできあがっているのが、われわれが暮らしている文化だと。
そうですよね。
―面白いですね。まぁそれがわかっていないと、その中から抜け出すための取り組みもできないしね。
そうそう。だから、いいスタート地点ですよ。
―そうですね。
※「国ふり」を考える
―先生、今、国の話が出てきたじゃないですか。で、国の話になると先生はよく「国ふり」って言葉を使いますよね。
はい。
「₋国ふり」って何なんですか?
「国ふり」というのは国の在りようというような意味ですね。
―じゃあそれって、もうすでにあるものですか?
うん。もうすでに日本も含めていろいろな国があるからね。
―ありますよね。
過去にも国はあったらし、現在も国はあるし、未来にも国はある可能性が高い。さっきも少し話したように一方でワンワールドといって、国という形をなくそうという考え方もありますけどね。
―そういう考え方もあるけれど、今までのところ国というのはもうあったわけですし、今もあると。
そう。そういう「国」といわれる存在が世界に200近くあるんですよ。じゃあ国というのは何なんだろうと考えた時に、僕は、社会をまとめている「在りよう」こそが国と呼ばれているものなのではないのかなと思うんですね。
―それって面白い定義ですよね。社会をまとめている在りようというものが国であると。だって今までは、領土なんかが国であるというような考え方だったわけですよね。
そうですね。普通は国家の三要素とか言いますからね。領土と国民と主権とかね。
―うん。そういうとらえ方もあるけれども、社会をまとめている在りようというのが、国であるという捉え方もできるよと。
そう。そして、国の意識が一番拡大された状態というのは、みんんが自由でありながら、もちろんその国の法律もあるんだけど、みんなが喜んでそこで存在している状態楽しく豊かに暮らしている状態だと思うんですね。
―じゃあ国と言った時に「社会をまとめている在りよう」が国なんだけども、その在りようには国民がみんな幸せで喜んで楽しんでいるという在りようの国もあれば、国民が苦しんで嘆いて悲しんでいるという在りようの国もあるわけだ。
うん、そうですね。
―なので国を考える時には、みんんが自由で楽しんでいるという在りように近づけていったほうがよろしいのではなかろうかと?
それがまさに国家の歴史というか、人間がそういうことを求めてきた歴史でもあるわけです。もう何千年にもわたってね。
ーそうか。その中に、その在りようをよりよくするために考えられる方法のひとつとして、領土の拡大という手段もあったということですか?
うん、そうでしょうね。でもね、本当に自分の国を愛すれば、その中ですべてをまかなっていくというか、その中でやっていくことを考えるわけでしょ?
ーえ?そうなんですか?
うん、そうですよ、基本的には。
ーえ?自分の国を愛するがゆえに、愛する存在を裕にするために他から奪おうというんんじゃなくて?
奪おうというんじゃなくて。
ー自分の国を愛していれば、自分の国ですべてをまかなおうとするんですか?
うん、それはそうですね。
―それはちょっと意外なんですけど。だって、そんなこと言っている国を見たことがない。だいたいどこの国でも虎視眈々と、他の国が持っている何かを狙っているじゃないですか?
そうだけどね。でも本当に自分の国のことがわかっていないと自分の国を大事にできないでしょう。だからたいていの国は外に戦争にでるわけだけど。でもそれは、自分たちには何もないから外に出ていくっていうことですよね。
―ほう。
だからイメ、要するに中国も韓国も北朝鮮も自分たちの国を本当に愛していないから、反日という姿勢をとることによって自分たちの存在を保とうとしているのではないかなと感じるわけです。それは日本という国も国として同じことをしているわけですけどね。
―ああ。ほかの国との比較の中でしか、自分たちのすばらしさを見ることができないという?
そうそうそう。
―それで「あの国はあんなに悪いけどウチの国はまあいいじゃないか」という理屈で自分の国のことを良く思おうとすると。
そう。でもやっぱり自分の国のことを良いと思えないから、また違う敵を探すというね。
―ああ。
だから国というものを考える時には、自分たちの国にはこんなにいいところがあるんだということを探す必要があると思う。そうすることによってはじめて国は変わりうるんだというかね。
―なるほど。
ここにはやっぱり二項対立の要素が隠されているわけですよ。自分の国の良さを本当に自覚できないから、相手が悪いというふうに決めつけて、対立構造を作っていくというね。
―でも自分が自分の良さを自覚していないというか、自国の良さを自覚していないということには、人は氣づいていないですよね。僕も含めて。
無意識だよね。
―その根本的な原因を見ないまま、別の問題にすり替えてしまっているというかね。例えば、ウチの国は素晴らしいんだから、それに対立する国はダメだというような理屈になったり。
うん。民主主義はすばらしいけど共産主義はダメだとかね。
―でも実は、その裏には愛国心のなさというか、「自分の国には何かが欠けているんじゃないだろうか」というような感覚があって、それを補うために他者を悪者にしちゃうということですか?
そうそう。国が相手を攻撃する時には、必ず自己の中に不安があるということですよ。
※自分の国の「良いとこ探し」
―それって人間関係でも同じですよね。
うん。だから人間関係も会社たい会社の関係も、家庭の中でだって、全く同じことが言えますねということでしょう。
―うーん。だから愛国心というか・・・。もう愛国心という言葉自体もちょっとおかしいですよね。他の国と自分の国との間意に差を見ようという意識がなければ、わざわざ愛国心なんていう言葉を使う必要はないですものね。
うん、そうですね。だから、日本も含めて、ほとんどの国では「自国の良いとこ探し」というのをしてないと思うんですよね。そんな中でたまに外から「あなたの国のここが素晴らしい」と言われたら「あ、これでいいんだ」t思って、しばらくはそのまま過ごすことはあるんだろうけどね。
―それは別に日本語に限っての話じゃないですよね。外かrあいいと言われたとき、はじめて自分の良さに氣付けるっていうのはね。
そうですね。ただ、自己を意識することがちゃんとできるかどうかは大切ですよ。
―あ、そうかそうか。自分の色眼鏡じゃないところで相手からの評価を素直に受け止められるかどうかということか。これ、すごい大事なことだと思うんですけど。
うん。すごく大事だとおもいますよ。
―うん。というのもね、自分の良いところさがしっていうのがあるんじゃないですか。でも、良いところさが詩をしているけれども、良いところ探しになってないケースがほとんどだと思うんですよ。
うん。
―例えば、日本だったら先生の前の本にもありましたけど、日本小野美しさとか、日本文化のすばらしさというのを再認識しようという運動というか動きがあるわけですおy。
はい。
―けど、日本の文化とか日本語の美しさというようなことを主張している本とか論文とかって、どこか行き過ぎている感じがするんですよ。人種的に優れているとか、能力的にすぐれているとかいう主張もありますしね。もちろん、生物学的な実際の違いは多少あったりするのかもしれないですけど、どうも世の中に出ている情報を見ると、そういう部分をすごく拡大解釈していたりする氣がするんですね。
言いたいことはわかりますよ。
―それって、僕は、自分の国の本当の良さを良さとして認められていない表れじゃないかなと思うんですけどね。例えば女の子が「あなたかわいいね」と言われても、それを素直に受け止められないというような感じですけど。
うん。
―頭では「自分に良いところがいっぱいあるのは知っているよ」と思ってるんだけど、心の中では知らなかったりするというかね。
そうそう。
―うーん。だから、先生の前の本の中の「日本人はうまくいく」という氣十tにしてもね、あの本を読んで「日本には素晴らしい部分があるんだと」再認識できたのだったらそれはそれでよいと思うんですけど。かといって「他の国はダメなんだ」となるというのはね。どうかと思うわけです、個人的にはね。
だから「他はダメなんだ」ということは、自分の奥に空虚なものが横たわっているということでね。その部分をやっぱり埋めていかないと難しいと思いますよ。
―そうですねぇ。
※「自分の良いところ探し」商売繁盛編
自分尾良いところ探しというお話が出てきました。私は毎日のようにどこかの企業さんや会社さんから売上アップや集客御ご相談を頂いているわけdすが、この自分の良いところ探しというのは、売上アップや集客には欠かせない作業です。
ですが、この「自分の良いところ探し」が上手にできている会社さんは多くないのです。なぜこの「自分の良いところ探し」が上手にできないのか。その理由のひとつには自分の商品に商品に対する自分の評価というものがあります。つまり「自分の商品はここがウリだ」という評価を持っている時には、お客さんもその「売り」を評価してくれているものだと思い込んでしまうのです。
ところが、こちらが良いと思っている内容をお客さんも良いと思っているかというのは微妙です。というか、外れていることのほうが多いのです。ということは逆に言えば、お客さんが「良い」と評価してくれている内容と知ることができればビジネス上の成果は大きくなるかもしれない。そんな例をひとつお話しします。
あるグラスメーカーの社長さんからご相談を受けた時のことです。私が社長さんに「お客さんはどうして御社のグラスを買ったのかって聞いたことありますか?」と質問したところ、しゃちょうさんはこうおっしゃいました。
「え?いや、聞いたことはないですけど。うちはグラス屋ですから。きっと飲み物を飲むために買われてるのだと思いますよ」そこで私がまた質問。「うん。でもお客さんに聞いたことあります?」また社長さんが答える。
また社長さんが答える。「聞いたことはないですけど。うちはグラスやですから。きっと飲み物を飲むために買われているのだと思いますよ」そこでこの社長さんにおお願いして、実際にグラスを買ったお客さんに「そのグラスを買った理由」を聞いてもらったのです。
そおn結果。やはり飲み物を飲むためにグラスを買ったという人は多かった。けれど以外にも、美術の専門学校生がデッサンの素材として買ったというケースも多かったのです。さらには、街のお花屋さんが自分のお店で売る花瓶としてグラスを買っていたこともわかった。
飲み物を飲むためのグラスを売る方法と、デッサンの素材としてのガラス製品を売る方法と、お花屋さんのオーナーに商材としての花瓶を売る方法とはまったく違います。結果として、この会社さんが人るの商品だと思ってひとつの売り方をしようとしていた商品(グラス)には三つの売り方があることがわかった。これはひとつの商品だと思っていたものが実は三つの異なる商品だったということと同じです。
このことがわかればあとはそれぞれの”商品”をしっかり反則していけばいい。今ではこのグラスメーカーのこの商品は、以前の3倍以上の売上を上げるようになっています。自分のいいところ探しは自分の中だけで考えるよりも、まわりの人に聞いたほうが早いこともあるかもしれません。もちろん、まわりの人に聞く際には誰に聞くかが大切です。もしもビジネスで自分の良いところ探しをするのであれば、もうすでにお金を払って商品を買ってくれた人にだけ聞くのがコツ。これを徹底すれば、思ってもみなかった「自分の良いところ」が見るかるはずです。
機会があれば。必要があれば。ぜひ、試してみてください。
3、もう少し日本を考える
150gの重い脳?
日本の文化ということでいえばね、そこにはやっぱり国土が狭いという制約があったのではないかと。だから国土以外のものを広げなければならなくなったというね。
-え、なんですか、国土以外のものって?
だからそれが意識というかね。意識の広がりにつながっていくという。さっきも言ったように、脳の発達のしかたが対立を超えた方向に向かうようになるとかね。これは意識の広がりですよ。
-意識の広がりでうか。わかるような、わからないような(笑)
ある研究では、日本人の脳は平均して他の民族よりも150g思いということをいう大学教授もいるし。
-うん・・・。僕にとってはそういう研究って、もちろん実際に数字が出ている以上はちゃんと研究されているんだとは思うんですけど、日本人が提唱している理論である以上、なんか判官贔屓に聞こえる部分があるんですよね。
(笑)一條さんのスタンスというのはいつもそうですよね。
―いやー単に、思い込みみたいな情報を宛てにしちゃうと、「ごめんごめん。やっぱりさっきの間違ってたわ」と言われたときにどうしようもなくなるから(笑)ビジネスの世界だったとしたらそれで会社がつぶれても誰も助けてくれないですからねぇ。
まったく正論ですね。
―まぁ、僕に限って言うとそう思うんですよね。そんな話は置いておいてですよ(笑)
そういう「脳が重たい」と言われている他の民族はいないんですか?例えば日本語とおなじように、1万年を超えて使われ続けている言語を日常語にしているポリネシアとかあるじゃないですか。彼らの脳も重くなっている可能性はあるんですか。
あるんじゃないかと思いますよ。東京医科歯科大学御の角田忠信という先生は「ポリネシア人の発送は日本人と発送と非常に近い」と言っています。もう40年くらい前にね。
―ふーん。じゃあもし仮にですよ、日本語と同じような母音優位の言語を使っているポリネシア人も同じように脳が思いと家庭すると、対立を超えた方向に意識が無垢のは、母音優位の言語を使っているからだということになるかもしれない?
その可能性はあるかもしれませんね。
―僕、なんかものすごくあてずっぽうなこと言ってますけど(笑)根拠はないです、もちろん。
(笑)でもけっきょく、母音が中心になっている言語は階層性という観点で見た時にわかりやすいんだと思いますよ。
―階層性がわかりやすい?
そうそう。音声学的に言えば、「あいうえお」という五つの母音は全部、「あ」はずっと「あ」だし、「い」はずっと「い」だし、「う」はずっと「う」だし、「え」はずっと「え」だし、「お」はずっと「お」でしょう。
ーえ?音って全部そうじゃないんですか?
ちがいますよ。日本語dめお最初の音hあなんであれ、最期に「あいうえお」のどれかに変化していくでしょ。
ーああそうか。子音と母音の組み合わせだから。
そう。
―先生流にいうと子音と子音と母音だけど。まあ、例えば「か」というと最初は「K」の音から始まるけど、すぐに「あ」という音に切り替わっていっちゃうと。
うん。母音の階層性が非常にはっきり出るでしょ。
―そうですね。でも、階層性がはっきりしていると何かいいことあるんですか?
階層階層性がはっきりすると、音と言葉の意味が湧けやすいというのかな。音が分けやすいから。
―ほう。
分けることができるというのは、何かを理解しようとするときにはとても大事なことだからね。ほら、物事がわかるというのは、「分かる」だから。分けることができるということが理解につながるということですよ。昔から「事分ける人」というでしょ。
―なるほどね。「あかさたな」と「いきしちに」は明確に違うよと。
そうそう。母音がはっきりしていると、言葉の分類が非常に明確になるでしょう。
―確かにそうですね。
そうやって分けていくと、最期には周波数にまで落とし込むことができると。
―そこにつながるわけですか。
うん。だからロゴストロンという機械になった。
※フランス語でもベンガル語でも
―ロゴストロンという機械に戻るとですねあれは周波数の発信器ですよね。「言葉によって脳の中に起こる周波数」を人工的に発信する機械ですもんね。
そうです。
―それで、発信する周波数を確定する時点では、母音と子音と父音に音の要素を分解して、それぞれの要素が脳に到達したときに脳の中で起こる反応というか、波を切りだしたわけですよね。
そうです。
―ということは、今や、あの機械で周波数を発信する対象になる言語というのは、日本語じゃなくてもいいわけじゃないですか。
そう。英語でもフランス語でもベンガル語でも大丈夫。
―今やそういう状態になったわけですけど、あの機械ができたもとのきっかけとしては、日本語があったから開発しやすかったんだということですか?
そうだと思いますよ。
―なるほどね。今となってはもうどの言語でも関係ないけど、最初にあの機械の設計というか、コンセプトが生まれたもとには、日本語という言語どう発信するかという思考があったと。
そうです。だから、それこそ前の本に書いた話だけど、韓国の学者さんが日本人のことをうらやんだという話があったじゃないですか。
―はい。
日本人がノーベル賞を比較的多くとれてきた土台には、科学や化学のテーマを母国語で考えることができるからだという話。あの話と似ているとも言えますよね。
―はいはい。日本語が研究の対象だったから、音を切り分けて、その音御影響を周波数として切り出すという糸口もみつかったと。
そうそう。
―ある意味で、ヘボン式ローマ字もものすごく役に立っているわけですよね。
そりゃあもう、すごく助かっているわけです。
―じゃあヘボンさんに感謝しないとね。
本当に。
※ダジャレの効用
―日本語の特性というとね、先生。前の本でも書いていらっしゃいましたけど、同音異議語がものすごく多いという特性もありますよね。
はい。
―先ほども、「あめ」という音が「雨」か「天」か「飴」かを瞬時に判断しているというような話がありましたしね。
はい。
―そういうね、同音異議語というと、先生も僕も、ものすごいくだらないダジャレをいつも連発してるじゃないですか?
僕のはくだらなくはないですけど(笑)
―(笑)あのダジャレというのは、日本語の特性があるからこそ出てくるわけですよね。
そうですね。僕がね、ダジャレをいっぱい言ってみてわかることは、ダジャレを言うときには一回頭の中を探しているんですよね。
―うん。
ダジャレを言うときには、まったく同じ音で、まったく違う意味の言葉を検索して探しだして、そしてそれを発生するなり、書き留めるなりして持ち出す。脳の中ではそういう操作をしているわけです。だから脳は同時に二つ以上のものを認識しているというようなことになる。
―ダジャレの内容はくだらないのに、脳的にはとっても高度な作業をしているという(笑)
そうそう。それでね、同音異議語が多いというのは、もともとの日本語の特性でしょ。
―はい。
ということは、日本語を使っている日本人であればだれでも、無意識のうちにこういう操作をしている可能性がある。
―なるほど。
だから、人の気持ちもなんとなくわかっちゃう、というのはあるのではないkたお思うんです。日本jんは。
―どういうことですか?
つまり、同時に二つ以上のことを考えてしまうというか。同時に二つ以上のことが浮かんでしまうと言ったほうが近いかな。というのも、日本人は同じ音で意味が違う言葉に、毎日毎日たくさん触れているわけでしょう?
―はい。
そうして毎回そういう言葉を耳にするたびに、今の一連の音のつながりはどの意味の言葉を表しているのだろう?というようなことを考えるわけですよ。複数ある同音異議語の候補の中かrぁ適切なものを選びとらないと、会話が通じなくなるからね。
―うん。ある意味、脳は必死ですよね。
そうそう。日本語を話している日本人であればずっとそんな暮らしを続けているわけですから、同時にふたつとか三つとかのことが脳の中に浮かんでくるのが普通になっていると思うんですよね。
―はい。
そうすると言葉以外のこと、例えば相手の近所地とかね、そういうものに対しても複数の可能性が浮かんでくるようになるのではないかと。
―ああ。別に相手のことをわかろうとはしていないけど・・・。
なんとなくわかっちゃう。相手が自分と違う意見を持っている人であったとしても、その人の意見を共有した状態で自分の中にあるという。
―ある意味、ダジャレの効用ですね(笑)
これはすごいことですよ(笑)
※ダジャレオンパレード小説「フィネガンズ・ウェイク」
―ダジャレということで言うと、日本語の音の多さというか表現の多さというのもダジャレに一役かっていますよね。
そうですね。ダジャレの範囲は同音異議語だけではないんでね。そのひとつの音がひっくり帰ったりするだけでナンセンスな意味になったりしますからね。
―うん。
アイルランドにね、ジェイムズ・ジョイスという小説家がいたんですけどね。彼が書いた「フィネガンズ・ウェイク」という本があるんです。
ーほう。
これはダジャレのオンパレードの小説なんです。
―あ、小説なんですか。
これを翻訳するのはもう、大変という話ですが、日本語ではそれが比較的スムーズにできたという話がある。
―どういうことですか?
だからそれは、そのダジャレを、音に非常に近いところでもって、なおかつ意味を残したまま翻訳できたということです。
―翻訳する時に、例えば意味だけを追って翻訳していくと、もう音の面白さがなくなるし、かといって音だけ拾っていくと、意味が全然通じなくなるということが起こりがちだけれど、日本語の場合は比較的、意味も音も両方面白さを残したままで翻訳できたということですか?
そうそう。
―なんでそんなことができたんですか?
それは日本の文化の中にダジャレの文化があったから。
―え?そこですか?語彙が多かったからとか、そういう話じゃないんですか?
もちろん語彙が多いというのもあるし。
―それに加えて、ダジャレはダジャレとして理解できたということ?
そうそうそう。だからダジャレを構築する時に、その意味と音がわかれば、それに見合った翻訳をつくれるっていうことでしょ。もともとのオリジナルのニュアンスを崩すことなしにね。
―意味と音の面白さを理解できさえすれば、同音異議語の引き出しはいっぱいあるよと。
そう。これは日本語の大きな特徴ですよ。
―なるほどねぇ。
※言霊研究なんてダジャレみたいなもの?
ダジャレというとね、日本語というか、言霊といわれる内容の研究自体がダジャレのようなものだとみなされてきた経緯もあるんですよ。
―どういうことですか?
つまりね、「言霊研究」と呼んだ時点で学問的な研究として評価を受けられない。言霊というのは言葉遊びのようなものだと思われてきたわけです。
―そうなんですか。
うん。だから研究する人は多くはなかったのかなと思うんですけどね。だからいっそう、信仰みたいになっちゃったという経緯はあるかもしれないですね。
―ん?でも今でも言霊に関する本とか、よく出てるじゃないですか。昔から「言霊大全」みないなほんもあるし。
まあね。
―ただ僕が見ていると、そういう本の多くは著者の方の私感がすごく強かったりしますよね。だから学問としては認められないだろうなと思うところがやっぱりあるわけで。なんでなんでしょうね。なんでそこから抜け出せないんですかね。
それはたぶん、音そのものを取り上げるからじゃないですかね。
それはたぶん、音そのものを取り上げるからじゃないですかね。
―ん?「あ」はどういう意味で、「い」はどういう意味だというところにこだわってしまうということ?
そうそう。まあ、「い」が「いのち」の「い」であるとかね。そういう理解をすること自体は別にかまわないと思いますけどね。ただそういう神秘的なものは何もないというのが僕の思うところだけれど。
―今の多くの人が言葉について語る時に、よりどころにする学問は言語学だし、切り口は実際の音としての言葉だと。
そうそう。
―でも違う角度からアプローチしてみると、言葉の音を聞いた時に脳の中で起こる反応をどう再現するかという方法もあるのではなかろうかと。
そうそう。
―そんなことも考えられるよと。
そう思うんだけどね。
※カントと日本語とバイリンガル?
―そういえば先生はそもそもなんで言葉、日本語というものを研究しようと思ったんですか?
うーん。日本語を研究しようと思ったというか・・・。ナレッジモデリングという手法をね、ソフトウェア開発の分野で行っていた時に、当然、日本語を使うわけですよ。だから知らず知らずのうちにね、考えていたのかもしれない。
―でも、そうやって突き詰めてきう人は多くはないですよね。
まあ、それは哲学的に言うと、カントの言う先験的理解があるからでしょうね。
―先験的理解?
うん。日常で使っている言葉をわざわざ考えないというかね。「あ」という音があって、自分が「あ」という音を使っている状態で、なんで「あ」は「あ」なんだろうということは考えませんよね。普通は。
―確かに。
だから、言語というのは非常に面白い性質を持っていて、一回学んでしまったらその内容について考えてみることがなくなる。その言語の存在が当たり前だと思っちゃうんでしょうね。
―その言語の存在が当たり前だと思う?
そうそう。これは別に日本語に限った話じゃないですよ。英語圏の人だったら、たいていの人は、何か大きな脳の病気でもなければ、普通に英語が話せるようになるでしょう?
―まあ、そうですよね。
そうすると英語を話すことが当たり前になるから、英語自体への疑問というか探求心というのは持ちにくいですおyね。
―なるほど。
だから、言語を獲得するプロセス自体が、言語への興味を維持させないようにしているというかね。
―うーん。
人間の言語脳は構造的には、どんな言語でも学べるようにはできていると思うんですよ。けど、いったん学べちゃうと、それがどうして学べたのかっていうことをいちいち考えないでしょ。要するにただ使っているだけの話になる。バイリンガルの人が、なぜ自分が2か国語を話せるのかを自分で考えたりはしないということですよ。
―もうそこにあるものが当たり前あから、それがなぜ当たり前かを考えることもしないと。
そうそう。
―だから考えも堂々巡りをして、最終的には「まあ日本語だからねぇ」みたいなあいまいな結論に行き着いちゃうというおとですか?
そう思いますよ。
―先生はなんでそこから抜け出たんですか?
え?いや抜け出してはいないけど、それでも「あ」はなんで「あ」なんだろうかと、一生懸命考え続けたっていうことですよ。
―ふーん。それって特殊ですよね。多くの人が言葉についていろいろ考えてるけど、そういう細かなというか、具体的なところにはなかなか行き着かないですよね。
うん。確かに。
―だから「なんか、日本語ってすごいんだ」みたいな結論で終わっちゃうじゃないですか。
そうそうそう。僕は全然、日本語が特別だとかは思わないわけだけど。ただ、要するになぜ「あ」は「あ」でなければいけないのか。「い」が「い」でなきゃいけないのかっていうところを考えていったてことでしょう。
―ほう。
そうしていく中で、「い」だったらさっきも言ったけど「いのち」の「い」であるとかね。そんな取って付けたようなことをいっぱい見つけていって。最後には自分で「こういうことかな」と納得するっていうことでしょう。「い」は「い」だということをね。
―え?何を納得するんですか?
「い」は「い」だということをですよ。
―なんだか、すごく哲学的ですけど。
うん。だからね、そういう納得というか理解を、ちょうど「悟り」のようにできるかどうかということが言葉を理解しようとするときにテーマになるわけです。
―ますます難しいですけど(笑)
うーん。例えば「あー」って言った時に「あー」の音というか言葉の意味を体感できるかというね。本当に「あ」が持つ感情や情緒を自分の感情や情緒に対応したものとしてかんじられるか。感じ取れるかという話なんですけどね。
※音を使って世界をつかむ
―うーん。わかったような、わからないような。
うん。だからそういうのは、修行ほうほうがあるわけですよ。「あ」とか「う」というものを本当に自分がわかったとわかるための修行ですね。それはいわゆる言葉についての悟りのようなものですけど、そういうものが日本にはあるんです。例えば宮中なんかにもそういう伝統があって、そういう言霊の「奥伝」を許された人には奥伝書という証明書が渡される。あなたは確かに「あ」を理解しましたよ、ということが証明書として渡されてきたんですね。
―ふーん。秘伝みたいなもんですか。
そうそう、秘伝を受けた。だから悟りっていうのはそんなもんでしょう。「あ」というのは、「あ」なんだと。
―そういうのは理屈で力アするものではなくて、体幹というか体得するものだということですか。
そうそうそう。その音によって感じる全身の揺らぎを、全身をもって感じるというような意味ですね。
―なるほどね。でも一方で、そういう体験をしちゃった人はしちゃった人でまた、別の意味でにほんごを掘り下げようとはしないはずですよね。自分の中ではもうわかっちゃってるから。
そうですね。
―なのに先生はなんで堀り下げようと思ったんですか?
だから哲学が好きだったからでしょ。だからそういうものを土台にして、何かを考えるということをやろうとしたから。そうしたらまた違った世界が見えてきたという。
―違った世界?
うん。だから、世界中にあるホーリーワードみたいな声音というか。例えば「オーム」という音があったりするでしょう?そういうものもみんな同じですけど、そういう音を使って世界をつかもうとするという取り組みはいろんなところでされているわけですよ。
―音を使って世界をつかむ?
世界をつかむというのは、世界を理解する、体幹として理解するという意味ね。
―ほう。
密教では梵字というものもあるし、真言というのもあるよね。例えば大日如来という存在を表す梵字はこういう字だとかね。それと同じようなもんですよ。そういう音を発していると、その存在が発しているのとおなじような振動が出るとかね。そういう修行法もあるわけですよね。
―真言密教ですよね。
うん。だから「真言」って言うんですよ。本当の言葉という意味でね。
―正確に言うなら、真実の音って言ったほうが近い?
おー、そうだね。真音。
※宗教的な悟りとは何か?
―ちょっと話は戻りますけど、言葉はなんで対立構造から成り立っているんですか?
それはわかりやすいからじゃないですか。
―わかりやすい?
そう。
―うーん。例えば、誰かが今の自分の状態を表現しないといけないとするじゃないですか。
うん。
―その時に例えば「気持ちがいいな」と言った時には、気持ちがいいという概念を相手に伝えるためには、お互いに「気持ちが悪い」という概念も知っていないといけないということなんですか?それが言語の構造として織り込まれていると。
そうです。例えばね、身体的に言うと「快」と「深い」という状態が考えられるでしょ。そうするとたいていの人は、快という状態のほうが不快という状態よりも良いと考えますよね。
―そりゃそうですよね。
じゃあ、人間の身体にとって一番いい状態というのはどういう状態かと考えると、これは「快」という状態ではないわけですよ。
―え?違うんですか?
うん。一番いい状態というのは、実は人間が快でもなく不快でもない状態なんです。
―ほう。
つまりね、心地よく暮らしている状態というのは「ああ、心地よいなぁ」ということを感じながら暮らしている状態ではなくて、何も感じていない状態であるということですよ。
―どういうことですか?
―だからね、自分が健康だと感じるってことは「自分は不健康だ」という認識がまだひっついている状態だと言えるわけ。だから一番いい状態というのは健康でもないし不健康でもない。快でもないし不快でもない状態を感じている状態だと言えるわけ。変な言い方だけどね(笑)
うーん。
―例えば、誰かが熱を出すと「自分は不健康だ。熱がある」と認識すると。
うん。
―そのあとで熱が下がっていくと、「ああ、健康になった。よかったよかった」となると。
そう。
―その熱が下がってからしばらくは「私は健康だ」と思ってるんだけど、2、3日もすると熱が出てたこととかすかり忘れちゃって、ただ普通員過ごしていくと。l
そうそう。そういう、ねつが出てたことをすっかりわすれちゃっている状態というのがね、快でもなくて不快でもない。この状態のことを「憶」と言ってるんですよね。
―憶ですか?
そう。これは学問的な定義ですけどね。三木成夫という先生が言っていることでね。「生命形体学序説」という本にも書いてあります。
―なるほど。
だから「快」とか「健康な状態」ということは、絶えず反語とセットになっているでしょう。つまりそういう状態を感じているうちはまだ本当の意味での「健康な状態」とか「快い状態」というわけではないということになる。
―ああ。定義としてね。
そう。だから本当に調子のいい状態というか、「快い状態」「健康な状態」というのは、快とか「健康」だとかいうことすら感じないでいる状態ですよということなんです。
―なるほど。
それでね、この発想法を使っていくと、宗教的な悟りというものも全部説明がつくんですよ。
―え?どういうことですか?
つまり、対立概念を超えたところに意識を持っていくことができるということです。
※対立概念を抜ける「道」
―対立概念を超えたところに意識を持っていく?
さっきの例で言えばね、快と不快というのは対立概念でしょう。とろこが「憶」というのはそういう対立概念からぬけちゃってますよね。
―うんうん。
だから、今は「快」と「不快」の例だったけれど、「善」と「悪」という対立概念の先にも「善」でもなければ「悪」でもない概念が生まれる可能性があるでしょう?
―理屈的にはそうなりますよね。
そうそう。つまり、そういう概念をつくっちゃうということですよ。「善」でもなければ「悪」でもないという概念を。
―それは簡単に言うと「善」といわれる状態が続いている状態なんですかね?
それは違いますね。「善」を超えたところにある概念だからね。
―ああ、そうか。「善」という認知を超えたところに移動しちゃうわけだから、「善」という認知はもう怒らないということですか。
そうそう。
―この概念ですけど、なんて呼ぶんですか?
僕はそれを「道」と呼んでいますけどね。
―道。
うん。だけどね、呼び方は何でもいいんですよ。
―ほう。ということは「道」というのは、「善」と「悪」の対立概念を超えたところにある概念に対する七沢先生流の呼び方ということですか。
そうそう。それで「快」「不快」の先にあるのは「憶」。「善」「悪」の先にあるのは「道」。「好」「嫌」の先にあるのは「効」とかね。こういうふうにして、対立概念の先にある新しい概念をつくっちゃう。そうするとね、対立概念から抜け出すことができるわけでうしょ。
―なるほど。
※愛と憎しみの果ては?
例えばね、「愛」という概念とそれに対立する「憎しみ」という概念があったとしますよ。この時に一番いい状態というのはずっと「愛」の中にいることではないでしょう?
―そうなんですか?「愛」と聞くとよさそうなんだけど(笑)
「愛」という概念は「憎しみ」という概念を伴っているからね。「愛」という概念を思い浮かべる時には「憎しみ」とか「愛さない」という概念が選択しとして浮かんでいるということですよ。
―なるほどね。まぁ、その概念をなんと呼ぶかはたいして重要ではないんだけれど、大事なのは「愛」と「憎しみ」という二項対立から抜け出した概念を持っていることで。
そう。
―そういう場所に自分を置いておくと対立に飲み込まれないよと。
そうそう。
―さっきの話に戻りますけど、こういう発想法を使っていくと、宗教的な悟りも説明がつくんですか?
うん。いわゆる「悟り」というのは宗教的な情緒のことでしょう?
―宗教的な情緒?
そう。情緒的なものだと思うんですよ。実際には、身体的な悟りの部分もあるわけですから。
―「身体的な悟り」ですか?
うん。だからそれが「憶」という概念の中にいるということ。
―ああ。なるほど。悟りというのはある意味、「快」でもなければ「不快」でもないところというか、そういう対立概念を超えたところにいることであると。
そう。
―ということは、情緒的な階層でもそういう対立概念を超えたところに行き着くとことはできると。
そう。そして、その状態に達したことをもって「悟った」と言うのだと思うんですよね。
―なるほどね。じゃあ、いわゆる仏教の修行をしている人たちが「悟った」とか「悟れない」とか言っているところと実際の悟りの状態は違うのではにかと。
まぁ、本人じゃないと違うかどうかはわからないけどね。僕が言えるのは、悟りの構造というのはこういうふうになっているのではないかと思いますよということです。
―ということなんですね。
はい。
―不快ですねぇ(笑)
(笑)
4₋日本人の国の在り方4章―神道作法と「国の在り方」
4₋神道作法と「国の在り方」
※イザナギ・イザナミの物語
―先生は「コミュニケーション・プラットフォーム」を作る研究をずっとしてきたというお話でしたよね。
そうですな。面白いことにね、コミュニケーションというおとで言うとね、コミュニケーションという言葉の日本語の訳はないんですよ。
―ないんですか?
うん。だって「コミュニケーション」といっちゃうからね。
―確かに、。だけど、コミュニケーションというのは、どの人種であろうと必要なものですよね。それを定義する言葉が日本語の中にないというのは、本当に不思議ですけどね。
うん。僕は「呼応」という言葉が一番近いんじゃないかと思ってるんだけど。
―呼応ね。
うん。というのはね、神話のはじめのほうで国生みという部分があるでしょ。
―はい国生みね。
うん。そこで、イザナギとイザナミが呼び合うわけですよ。イザナミが「あなにやし、えをとこを」と言って、それを受けたイザナギが「あなにやし、えをとめを」と返す。そうしたら水蛭子が生まれる。これではいかんということで、今度はイザナギが先に「あなにやし、えをとめを」と呼び掛けて、イザナミが「あにあにやし、えをとこを」と返すとちゃんとした子供が生まれた。
こういう記述があるわけですよね。これは呼び合いですおy。だからコミュニケーションという意味で言うと、呼応という言葉が近いんじゃないかと。
―なるほどね。ちなみに、イザナギ・イザナミの国生みで言うとね、まず最初に水蛭子が生まれるじゃないですか。
はい。
―あの水蛭子というのは、何かのシンボルだと思うんですけど、そのシンボルは何を表しているんですかね?
それは「呼び合いは女性から初めてはダメだ」というメッセージですよね。
―ほう?
ある時期に女性主導の文明から男性主導の文明に転換したということでしょう。
―なるほど。そうするおt、イザナギ・イザナミの物語というのは、文化規範を伝えるための物語であるということになりますよね?
そうですね。
―そう考えると、卦局神話というものはひとつの教訓としての「におhんむかしばなし」に近いようなものであると。
うん。そんなおとぎ話と同じですよ。要はその謎が解ければなんてことはないというね。言葉がそういう謎だったというのは、私の先生たちもよく言ってたことだしね。だから全部謎解きをしていったという。
―そこだけ聞いていると身もふたもないですね。
そう思いますけどね。でも言葉なんていうのは、もともとそういうものだといいうか、言葉の研究という謎を解いていくようなものであるわけでね。それを神秘化して、信仰にしようとした試みもあったということですけどね。だから、文学的な意味の美しさというようなものを言葉の研究の主眼に置く人もいれば、言霊というような神秘性に主眼を置くという人もいるという。まぁ、いろいろな階層があるということですよ。
※伯家神道のベールをぺろり
―神話というものを神秘的なものだととらえることもできるし、言葉の謎解きの大正だととらえることもできるおyと。
そうそう。
―じゃあ、先生がやっているような神道の作法というのはどうなるんですか?伯家神道の修行は。「おみち」と言われている内容ですけど。
だから、あれも自然の中にある種の働きとコミュニケーションする作法ですよ。
―コミュニケーションの作法?確かに先生はずっと「あれはただの作法ですよ」と言ってますもんね。
うん。作法です。
―じゃあ、簡単に行ったら、そこにタンポポの花が咲いているのを見た時に「わー、きれい」と手を広げたとしたら、それが自然とコミュニケ―ションしたということであると。そしてそれを再現するために、こんなふうに手を広げてみましょうと。そうしたら、その情動が再現されますよ、という感じに近いんですか?
まあそうですね。だから宇宙というか、自然界の働きがあるでしょ。そういう働きを自分の身体を使って疑似体験できるというか、疑似体験するための作法というかね。体験できるというのが、この「おみち」の良さなんですね。だかあそれはある意味、相撲部屋の稽古みたいにやればいいんじゃないかと思うんだけど。
―相撲部屋の稽古。
うん。「みんあ、早く来い。稽古するぞ!と言ってね(笑)ゲーム感覚で楽しんでやればいいと思うんだけど。もともと相撲だって本当は神事ですからね。あれもひとつの作法ですよ。
―なるほどね。
それと同じように、身もふたもないようだけども、その「稽古」の中でそれぞれの人が、例えばある種の自然の働きを体感できれば、僕は絶対に楽しいと思ってるんでしょうよ。
―その「おみち」という作法を行っている間に、個人には特定の自然の働きに呼応するような動きが出てくると。
そうそう。身体が旋回したりね。まぁ、あんまり詳しく話すとね、これから「おみち」を体験する人が先験的理解で縛られちゃうといけないから話さないけどね。
―うん。でもそういう身体的な動きというのは、個人個人で違っていて当たり前だということですか?
うん。そうなんだけどね。でも、実際にはある特定の働きが疑似的に人間の身体の上に起こる時には、本当に動きが似ているんです。あれは人間業じゃない(笑)だから面白いわけですよ。
―人間は完全に受け身ですもんね。
そうそう。だからね、人間の形をとてね、例えばこうしてペコリと礼拝するという作法にはなんの意味もないと思うんですけどね。そうではなくて、自然のはたらきが人間の身体を使って現れるところに非常に不思議な感じがしますよね。
―なるほどね。かといって多くの人が考えているような神業でもないわけで、あえて言うなら自然業なんですか。
うん、だから、そういう自然の働きもあるし。今度はそういう、いわゆる神話の紙と言っているようないみIの働きもあるんですよ。
―階層的ですね。
そう、階層的。だからこれは面白いところですよね。
―難しいですね。ついつい、どっちなんですかっていう話になりがちですからね(笑)
(笑)
※柏手と右脳の錐体街路系
―人為的な礼拝というのには意味がないという話になると、例えば柏手を打つという行為にも意味がないということになりますよね。
うん。柏手だったら、だからそういう存在と自己がただ一つになるというような。一つの動作ですよね。
―その動作をすることで、今何かひとつになったと自分が思うためのトリガーみたいなものですか?
思うというか、そういうこと自体も言わないけども、パンとやった時に、ひとつだと体感するというような。
―うーん。深いな(笑)
うん。だから言語じゃないんですよね。簡単に言うと、いわゆる人間の右脳の錐体外路系の感覚というものを入れやすいということですよ。いわゆる「憶」というか、悟りというようなことも同じでね。それを簡単に自分のものにできる作法体系だと理解すると良いと思うんですよね。そういうひとつの身体動作と。
―作法に従うだけで、特に努力もいらないしと。
ええ。
―それこそ僕なんかだったらビジネスの世界にどっぷりですから、自分の自由度を上げるために例えば意識して「欲望を限る」というような取り組みをするわけですよ。
ほとんどの人はやってないけどね(笑)
―まぁ、なんとも言えませんけど(笑)ただ、そういう意識的な努力というか取り組みをすることなしに、そういう状態を体感することができるというのはいいですよね。
うん。とてもいいと思うんだけど。しかも体感は自分の中に残るからね。いったん経験した感覚はなくなっていったりしないから。だからそこが本当に面白いところなんだけど(笑)
※生きとし生けるものを背中に背負う
―先生、「おみち」の話をしている時って、楽しそうですね(笑)
そうですか?じゃあ一條さんがビジネスの話をしている時と同じですね(笑)でもね、今やそういうものを個人個人が体感する時が来ているんじゃないかなとも思うんですよ。国というものを個人が感じられるというかね。
―国ですか?
うん。そういう作法に従ってみると、みんなが国を感じられると。実際にこの「おみち」の作法というのは、天皇が自分の背中に生きとし生けるものすべての存在を乗せているというような感覚になるための作法なわけですからね。それが国体ということですよね。
―国体?
そうそう。国の身体。
―なるほど。
今はほら、政治家も含めて、日本という国に対する国家間というものが求めらえている時代だからね、こういう体感というのは非常に大切だと思うんですよね。
―だからもうちょっと物事や国を広い目で見て、どういう発展の仕方をさせればいいかというのを冷静に考えたら、また道が開けるでしょうねと。
そうですね。
―もうちょっと広い視点で見てみようよと。
そうです。いや、本当にみんんが住みやすいところに住んでいればいいんじゃないの、ということになればいいんですよね。
―広い目で見た上でね。
そうそう。だから、いわゆるワンワールドという思想が悪いわけじゃないんだけど、支配のためのワンワールドという意味じゃなくてね。生きている人たちみんんが自由に平等に、あるいはひとつの社会が安定した形で生きられるという方向性を目指していけばいいんじゃないのかなと思うんですけどね。
―スケールの大っきいな話ではありますがね。
まぁね(笑)でも、そうですよ。きっと。
―うん。でもまたその足を引っ張るのが二項対立であると。
そうですね。
―結局そこに戻っていって、そこが解決しない限りは何をやっても難しいという話ですか。
そうですね。まあ、いつも使っている言語自体にも二項対立の要素が織り込まれているわけですからね。
―対立させるように、対立させるようにできあがっているのが、われわれが暮らしている文化だと。
そうですよね。
―面白いですね。まぁそれがわかっていないと、その中から抜け出すための取り組みもできないしね。
そうそう。だから、いいスタート地点ですよ。
―そうですね。
※「国ふり」を考える
―先生、今、国の話が出てきたじゃないですか。で、国の話になると先生はよく「国ふり」って言葉を使いますよね。
はい。
「₋国ふり」って何なんですか?
「国ふり」というのは国の在りようというような意味ですね。
―じゃあそれって、もうすでにあるものですか?
うん。もうすでに日本も含めていろいろな国があるからね。
―ありますよね。
過去にも国はあったらし、現在も国はあるし、未来にも国はある可能性が高い。さっきも少し話したように一方でワンワールドといって、国という形をなくそうという考え方もありますけどね。
―そういう考え方もあるけれど、今までのところ国というのはもうあったわけですし、今もあると。
そう。そういう「国」といわれる存在が世界に200近くあるんですよ。じゃあ国というのは何なんだろうと考えた時に、僕は、社会をまとめている「在りよう」こそが国と呼ばれているものなのではないのかなと思うんですね。
―それって面白い定義ですよね。社会をまとめている在りようというものが国であると。だって今までは、領土なんかが国であるというような考え方だったわけですよね。
そうですね。普通は国家の三要素とか言いますからね。領土と国民と主権とかね。
―うん。そういうとらえ方もあるけれども、社会をまとめている在りようというのが、国であるという捉え方もできるよと。
そう。そして、国の意識が一番拡大された状態というのは、みんんが自由でありながら、もちろんその国の法律もあるんだけど、みんなが喜んでそこで存在している状態楽しく豊かに暮らしている状態だと思うんですね。
―じゃあ国と言った時に「社会をまとめている在りよう」が国なんだけども、その在りようには国民がみんな幸せで喜んで楽しんでいるという在りようの国もあれば、国民が苦しんで嘆いて悲しんでいるという在りようの国もあるわけだ。
うん、そうですね。
―なので国を考える時には、みんんが自由で楽しんでいるという在りように近づけていったほうがよろしいのではなかろうかと?
それがまさに国家の歴史というか、人間がそういうことを求めてきた歴史でもあるわけです。もう何千年にもわたってね。
ーそうか。その中に、その在りようをよりよくするために考えられる方法のひとつとして、領土の拡大という手段もあったということですか?
うん、そうでしょうね。でもね、本当に自分の国を愛すれば、その中ですべてをまかなっていくというか、その中でやっていくことを考えるわけでしょ?
ーえ?そうなんですか?
うん、そうですよ、基本的には。
ーえ?自分の国を愛するがゆえに、愛する存在を裕にするために他から奪おうというんんじゃなくて?
奪おうというんじゃなくて。
ー自分の国を愛していれば、自分の国ですべてをまかなおうとするんですか?
うん、それはそうですね。
―それはちょっと意外なんですけど。だって、そんなこと言っている国を見たことがない。だいたいどこの国でも虎視眈々と、他の国が持っている何かを狙っているじゃないですか?
そうだけどね。でも本当に自分の国のことがわかっていないと自分の国を大事にできないでしょう。だからたいていの国は外に戦争にでるわけだけど。でもそれは、自分たちには何もないから外に出ていくっていうことですよね。
―ほう。
だからイメ、要するに中国も韓国も北朝鮮も自分たちの国を本当に愛していないから、反日という姿勢をとることによって自分たちの存在を保とうとしているのではないかなと感じるわけです。それは日本という国も国として同じことをしているわけですけどね。
―ああ。ほかの国との比較の中でしか、自分たちのすばらしさを見ることができないという?
そうそうそう。
―それで「あの国はあんなに悪いけどウチの国はまあいいじゃないか」という理屈で自分の国のことを良く思おうとすると。
そう。でもやっぱり自分の国のことを良いと思えないから、また違う敵を探すというね。
―ああ。
だから国というものを考える時には、自分たちの国にはこんなにいいところがあるんだということを探す必要があると思う。そうすることによってはじめて国は変わりうるんだというかね。
―なるほど。
ここにはやっぱり二項対立の要素が隠されているわけですよ。自分の国の良さを本当に自覚できないから、相手が悪いというふうに決めつけて、対立構造を作っていくというね。
―でも自分が自分の良さを自覚していないというか、自国の良さを自覚していないということには、人は氣づいていないですよね。僕も含めて。
無意識だよね。
―その根本的な原因を見ないまま、別の問題にすり替えてしまっているというかね。例えば、ウチの国は素晴らしいんだから、それに対立する国はダメだというような理屈になったり。
うん。民主主義はすばらしいけど共産主義はダメだとかね。
―でも実は、その裏には愛国心のなさというか、「自分の国には何かが欠けているんじゃないだろうか」というような感覚があって、それを補うために他者を悪者にしちゃうということですか?
そうそう。国が相手を攻撃する時には、必ず自己の中に不安があるということですよ。
※自分の国の「良いとこ探し」
―それって人間関係でも同じですよね。
うん。だから人間関係も会社たい会社の関係も、家庭の中でだって、全く同じことが言えますねということでしょう。
―うーん。だから愛国心というか・・・。もう愛国心という言葉自体もちょっとおかしいですよね。他の国と自分の国との間意に差を見ようという意識がなければ、わざわざ愛国心なんていう言葉を使う必要はないですものね。
うん、そうですね。だから、日本も含めて、ほとんどの国では「自国の良いとこ探し」というのをしてないと思うんですよね。そんな中でたまに外から「あなたの国のここが素晴らしい」と言われたら「あ、これでいいんだ」t思って、しばらくはそのまま過ごすことはあるんだろうけどね。
―それは別に日本語に限っての話じゃないですよね。外かrあいいと言われたとき、はじめて自分の良さに氣付けるっていうのはね。
そうですね。ただ、自己を意識することがちゃんとできるかどうかは大切ですよ。
―あ、そうかそうか。自分の色眼鏡じゃないところで相手からの評価を素直に受け止められるかどうかということか。これ、すごい大事なことだと思うんですけど。
うん。すごく大事だとおもいますよ。
―うん。というのもね、自分の良いところさがしっていうのがあるんじゃないですか。でも、良いところさが詩をしているけれども、良いところ探しになってないケースがほとんどだと思うんですよ。
うん。
―例えば、日本だったら先生の前の本にもありましたけど、日本小野美しさとか、日本文化のすばらしさというのを再認識しようという運動というか動きがあるわけですおy。
はい。
―けど、日本の文化とか日本語の美しさというようなことを主張している本とか論文とかって、どこか行き過ぎている感じがするんですよ。人種的に優れているとか、能力的にすぐれているとかいう主張もありますしね。もちろん、生物学的な実際の違いは多少あったりするのかもしれないですけど、どうも世の中に出ている情報を見ると、そういう部分をすごく拡大解釈していたりする氣がするんですね。
言いたいことはわかりますよ。
―それって、僕は、自分の国の本当の良さを良さとして認められていない表れじゃないかなと思うんですけどね。例えば女の子が「あなたかわいいね」と言われても、それを素直に受け止められないというような感じですけど。
うん。
―頭では「自分に良いところがいっぱいあるのは知っているよ」と思ってるんだけど、心の中では知らなかったりするというかね。
そうそう。
―うーん。だから、先生の前の本の中の「日本人はうまくいく」という氣十tにしてもね、あの本を読んで「日本には素晴らしい部分があるんだと」再認識できたのだったらそれはそれでよいと思うんですけど。かといって「他の国はダメなんだ」となるというのはね。どうかと思うわけです、個人的にはね。
だから「他はダメなんだ」ということは、自分の奥に空虚なものが横たわっているということでね。その部分をやっぱり埋めていかないと難しいと思いますよ。
―そうですねぇ。
※「自分の良いところ探し」商売繁盛編
自分尾良いところ探しというお話が出てきました。私は毎日のようにどこかの企業さんや会社さんから売上アップや集客御ご相談を頂いているわけdすが、この自分の良いところ探しというのは、売上アップや集客には欠かせない作業です。
ですが、この「自分の良いところ探し」が上手にできている会社さんは多くないのです。なぜこの「自分の良いところ探し」が上手にできないのか。その理由のひとつには自分の商品に商品に対する自分の評価というものがあります。つまり「自分の商品はここがウリだ」という評価を持っている時には、お客さんもその「売り」を評価してくれているものだと思い込んでしまうのです。
ところが、こちらが良いと思っている内容をお客さんも良いと思っているかというのは微妙です。というか、外れていることのほうが多いのです。ということは逆に言えば、お客さんが「良い」と評価してくれている内容と知ることができればビジネス上の成果は大きくなるかもしれない。そんな例をひとつお話しします。
あるグラスメーカーの社長さんからご相談を受けた時のことです。私が社長さんに「お客さんはどうして御社のグラスを買ったのかって聞いたことありますか?」と質問したところ、しゃちょうさんはこうおっしゃいました。
「え?いや、聞いたことはないですけど。うちはグラス屋ですから。きっと飲み物を飲むために買われてるのだと思いますよ」そこで私がまた質問。「うん。でもお客さんに聞いたことあります?」また社長さんが答える。
また社長さんが答える。「聞いたことはないですけど。うちはグラスやですから。きっと飲み物を飲むために買われているのだと思いますよ」そこでこの社長さんにおお願いして、実際にグラスを買ったお客さんに「そのグラスを買った理由」を聞いてもらったのです。
そおn結果。やはり飲み物を飲むためにグラスを買ったという人は多かった。けれど以外にも、美術の専門学校生がデッサンの素材として買ったというケースも多かったのです。さらには、街のお花屋さんが自分のお店で売る花瓶としてグラスを買っていたこともわかった。
飲み物を飲むためのグラスを売る方法と、デッサンの素材としてのガラス製品を売る方法と、お花屋さんのオーナーに商材としての花瓶を売る方法とはまったく違います。結果として、この会社さんが人るの商品だと思ってひとつの売り方をしようとしていた商品(グラス)には三つの売り方があることがわかった。これはひとつの商品だと思っていたものが実は三つの異なる商品だったということと同じです。
このことがわかればあとはそれぞれの”商品”をしっかり反則していけばいい。今ではこのグラスメーカーのこの商品は、以前の3倍以上の売上を上げるようになっています。自分のいいところ探しは自分の中だけで考えるよりも、まわりの人に聞いたほうが早いこともあるかもしれません。もちろん、まわりの人に聞く際には誰に聞くかが大切です。もしもビジネスで自分の良いところ探しをするのであれば、もうすでにお金を払って商品を買ってくれた人にだけ聞くのがコツ。これを徹底すれば、思ってもみなかった「自分の良いところ」が見るかるはずです。
機会があれば。必要があれば。ぜひ、試してみてください。