ピロソピア愛知

幼年期のピロソピーかんがえる

洞窟の比喩 プラトン

2013-03-14 | 洞窟の比喩 プラトン著


『 国家 』  プラトン著

C 哲人統治者のための知的教育 

 1 「学ぶべき最大のもの」(認識の最高目標)――<善> 第六巻 十五~十七章

 2 <善>のイデア=太陽の比喩。第六巻十八章~十九章

 3 線分の比喩。第六巻 二十章~二十一章 

 4 洞窟の比喩。第七巻 一章~五章

 5 「魂の向け変え」と「真実在への上昇」のための教育のプログラム。第七巻 六章~十八章



* 哲人統治者のための知的教育 :

《洞窟を抜け出た人》:《イデアに目覚めた人》:《進化完遂した人》:《進化完遂を果した次期人類》:《ホモ・サピエンス・サピエンス・ピロソピー》を育てるための知的教育、その理念を導き出し示し教える師ソクラテスと若者の対話内容となっている。

 <教育と無教育>を狭義に捉えているとこれらの説は「うん?なに?どういうこと?」と混乱して、おそらく理解できないでしょう。
 若者すべてを(子どものときから)、哲人ピロスポスに育てるための教育をする。
そうした教育をおこなった結果、あらわれた統治者(リーダーというより、単なるだいひょうまとめ役)も当然哲人ピロソポスとしての資質を兼ね備えている。
 現代の今は、そのように考えると理解しやすいかもしれません。





 洞窟の比喩


 一

 「ではつぎに」とぼくは言った、「教育と無教育ということに関連して、われわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれたまえ」

――地下にある洞窟状の住まいのなかにいる人間達を思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった入口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間達はこの住まいのなかで、子どものときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛めのために、頭をうしろへめぐらすこともできないのだ(a b)。彼らの上方はるかのところに、火(i)が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。

 この火と、この囚人たちのあいだに、ひとつの道(e f)が上のほうについていて、その道に沿って低い壁のようなもの(gh)が、しつらえてあるとしよう。それはちょうど、人形遣いの前に衝立が置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、同じようなぐあいになっている」

 「思い描いています」とグラウコンは言った。

 「ではさらに、その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他のいろいろの材料で作った、人形およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んでいくものと、そう思い描いてくれたまえ。運んでいく人々のなかには、当然、声を出すものもいるし、黙っている者もいる」

 「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人達のお話ですね」と彼。

 「われわれ自身によく似た囚人達のね」と僕は言った、「つまり、まず第一に、そのような状態に置かれた囚人達は、自分自身やお互いどうしについて、自分たちの正面にある洞窟の一部(cd)に火の光で投影される影のほかに、何か別のものを見たことがあると君は思うかね?」

 「いいえ」と彼は答えた、「もし一生涯、頭を動かすことができないように強制されているとしたら、どうしてそのようなことがありえましょう」

 「運ばれているいろいろの品物については、どうだろう?この場合も同じではないかね?」

 「そのとおりです」

 「そうすると、もし彼らがお互い同士話し合うことができるとしたら、彼らは、自分たちの口にする事物の名前が、まさに自分たちの目の前をとおりすぎて行くものの名前であると信じるだろうとは、思わないかね?」

 「そう信じざるをえないでしょう」

 「では、この牢獄において、音もまた彼らの正面から反響して聞こえてくるとしたら、どうだろう?彼らのうしろを通り過ぎていく人々の中の誰かが声を出すたびに、彼ら囚人達は、その声を出しているものが、目の前を通り過ぎていく影以外の何かだと考えると思うかね?」

 「いいえ、けっして」と彼。

 「こうして、このような囚人達は」と僕は言った、「あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう」

 「どうしてもそうならざるをえないでしょう」と彼は言った。

 「では、考えてくれたまえ」と僕はいった、「彼らがこうした束縛から解放され、無知を癒されるということが、そもそもどのようなことであるかを。それは彼らの身の上に、自然本来の状態へと向かって、次のようなことが起る場合に見られることなのだ。

――彼らの一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができないだろう。

 そのとき、ある人が彼に向かって、『お前が以前にみていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、物を見ているのだ』と説明するとしたら、彼は一体なんと言うと思うかね?そしてさらにその人が、通り過ぎていく事物のひとつひとつを彼に指し示して、それが何であるかをたずね、むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して、以前に見ていたもの〔影〕のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとはおもわないかね?」

 「ええ、大いに」と彼は答えた。




   二

 「それならまた、もし直接火の光そのものを見つめるように強制したとしたら、彼は目が痛くなり、向き返って、自分がよく見えるもののほうへと逃げようとするのではないか。そして、やっぱりこれらのもののほうが、いま指し示されている事物よりも、実際に明確なのだと考えるのではなかろうか?」

 「そのとおりです」と彼。

 「そこで」と僕は言った、「もし誰かが彼をその地下の住まいから、荒く急な登り道を力づくで引っぱって行って、太陽の光の中へ引き出すまでは放さないとしたら、彼は苦しがって、引っぱっていかれるのを嫌がり、そして太陽の光のもとまでやってくると、目はぎらぎらとした輝きでいっぱいになって、いまや真実であると語られるものを何一つとして、見ることができないのではなかろうか?」

 「できないでしょう」と彼は答えた、「そんなに急には」

 「だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。――まず最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水にうつる人間その他の映像を見て、後になってから、その事物を直接見るようにすればよい。そしてその後で、天空のうちにあるものや、天空そのものに目を移すことになるが、これにはまず、夜に月や星の光を見るほうが、昼間太陽とその光をみるよりも楽だろう」

 「ええ、当然そのはずです」

 「思うにそのようにしていって、最後に、太陽を見ることができるようになるだろう――水その他の、太陽本来の居場所ではないところに映ったその映像ではなく、太陽それ自体を、それ自身の場所において直接しかと見てとって、それがいかなるものであるか観察できるようになるだろう」

 「必ずそうなるでしょう」と彼。

 「そしてそうなると、こんどは、太陽について次のように推論するようになるだろう、――この太陽こそは、四季と年々の移り行きをもたらすもの、目に見える世界におけるいっさいを管轄するものであり、また自分達が地下で見ていたすべてのものに対しても、ある仕方でその原因となっているものだ、と」

 「ええ」と彼は言った、「つぎにそういった段階に立ちいたることは明らかです」

 「するとどうだろう?彼は、最初に住まいのこと、そこで<知恵>として通用していたもののこと、その当時の囚人仲間のことなどを思い出してみるにつけても、身の上に起ったこの変化を自分のために幸せであったと考え、地下の囚人達をあわれむようになるだろうとは、思わないかね?」

 「それはもう、たしかに」

 「地下にいた当時、彼らはお互いのあいだで、いろいろと名誉だとか賞讃だとかと与え合っていたものだった。とくに、つぎつぎと通り過ぎていく影を最も鋭く観察していて、そのなかのどれが通常は先に行き、どれが後に来て、どれとどれとが同時に進行するのが常であるかをできるだけ多く記憶し、それにもとづいて、こらからやって来ようとするものを推測する能力を最もおおくもっているような者には、特別の栄誉が与えられることになっていた。――とすれば、君は、このいまや解放された者が、そういった栄誉を欲しがったり、彼ら囚人たちのあいだで名誉を得て権勢の地位にある者たちを羨んだりすると思うかね?むしろ彼は、ホメロスがうたった言葉と同じ心境になって、かの囚人たちの思わくへと逆もどりして彼らのような生き方をするくらいなら、『地上に生きて貧しい他人の農奴となって奉公すること』でも、あるいは他のどんな目にあうことでも、そのほうがせつに望ましいと思うのではないだろうか?」

 「そのとおりだと私は考えます」と彼は言った、「囚人たちのような生き方をするくらいなら、むしろどんな目にあってもよいという気になるでしょう」

 「それでは、次のこともよく考えてみてくれたまえ」とぼくは話をつづけた、「もしこのような人が、もう一度下に降りて行って、前にいた同じところに座を占めることになったとしたら、どうだろう?太陽のもとから急にやって来て、彼の目は暗黒に満たされるのではないだろうか」

 「それはもう、大いにそういうことになるでしょう」と彼は答えた。

 「そこでもし彼が、ずっとそこに拘禁されたままでいた者たちを相手にして、もう一度例のいろいろな影を判別しながら争わなければならないことになったとしたら、どうだろう――それは彼の目がまだ落ち着かずに、ぼんやりとしか見えない時期においてであり、しかも、目がそのようにそこに慣れるためには、少なからぬ時間を必要とするとすれば、そのような時、彼は失笑を買うようなことにならないだろうか。そして人々は彼について、あの男は上に登って行ったために、目をすっかりだめにして帰ってきたのだと言い、上に登って行くなどということは、試みるだけの値打ちさえもない、と言うのではなかろうか。こうして彼らは、囚人を解放して上のほうへ連れて行こうと企てる者に対して、もしこれを何とか手のうちに捕らえて殺すことができるならば、殺してしまうのではないだろうか?」

 「ええ、きっとそうすることでしょう」と彼は答えた。













洞窟の比喩 プラトン 続  

2013-03-14 | 洞窟の比喩 プラトン著


  三

 「それでは、親しいグラウコンよ」とぼくは言った、「いま話したこの比喩を全体として、先に話した事柄に結び付けてもらわなければならない。つまり、視覚を通して現われる領域というのは、囚人の住まいに比すべきものであり、その住まいの中にある火の光は、太陽の機能に比すべきものであると考えてもらうのだ。そして、上にいって上方の事物を観ることは、魂が<思惟によって知られる世界>へと上昇して行くことであると考えてくれれば、ぼくが言いたいと思っていたことだけは――とにかくそれを聞きたいというのが君の望みだからね――とらえそこなうことはないだろう。

 ただし、これが真実まさしくこのとおりであるかどうかということは、神だけがしりたもうとことだろう。とにかくしかし、このぼくに思われるとおりのことはといえば、それはこうなのだ。――知的世界には、最後にかろうじて見てとられるものとして、<善>の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとられたならば、この<善>の実相こそはあらゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ。すなわちそれは、<見られる世界>においては、光と光の主を生み出し、<思惟によって知られる世界>においては、みずからが主となって君臨しつつ、真実性と知性とを提供するものであるのだ、と。そして、公私いずれにおいても思慮ある行いをしようとする者は、この<善>の実相こそ見なければならぬ、ということもね」

 「私もまた、同じ考えです」と彼は答えた、「私に理解できるかぎりでは」

 「さあそれは」とぼくはつづけた、「次のことでも同じ考えになってくれたまえ。そして、けっして驚かないようにしてくれたまえ――上の世界に行ったことのある人々は、世俗のことを行う気にならず、彼らの魂はいつも、上方で時を過ごすことを切望するということを。それは当然のことだろうからね。いやしくもこの点について、こんども先に語られた比喩のとおりであるとするならば」

 「ええ、たしかにそれは当然のことです」と彼は言った。

 「ではどうだろう、次のことは、何か驚くに足るようなことだと思うかね?」とぼくは言った、「神的なものを観照していた人が、そこを離れて、みじめな人間界へと立ちもどり、その場の暗闇にじゅうぶん慣れないで、まだ目がぼんやりとしか見えないうちに、法廷その他の場所で、正義の影あるいは其の影の元にある像について、裁判上の争いをしなければならないようなとき、そしてそういった影や像が<正義>そのものをまだ一度も見たことのないものたちによって、どのように解されているかをめぐって争わなければならないようなときに、へまなことをして、ひどく滑稽に見えたとしても、これは驚くに足ることだろうか?」

 「いいえ、ぜんぜん驚くに足りません」と彼は答えた。

 「むしろ、心ある人ならば」とぼくは言った、「目の混乱には二通りあって、その原因にも二通りあるということを、想い起こすことだろう。すなわち、光から闇に移されたときに起る混乱と、闇から光に移されたときに起る混乱とがそれだ。そして、これとまったく同じことが魂の場合にも起こるということを認めるならば、ものをよく見定めることができずにまごまごしているような魂を見ても、わきまえもなしにただ笑うというようなことはしないだろう。むしろ、その魂はもっと明るい生活のなかからやって来たので、不慣れのために目がくらんでしまっているのか、それとも、もっとひどい無知の状態のなかから比較的明るいところへ出てきたので、以前よりは明るい輝きのために、目がちかちかと火花でいっぱいになっているのか、そのどちらかであるかを、よくしらべてみることだろう。そしてそのようにしらべたうえで、一方〔前者〕の魂に対しては、そのような状態と生き方を幸せであるとみなすだろうし、他方〔後者〕の魂に対しては、あわれみを感じるだろう。その場合、その魂のことを笑いたくなったとしても、上方の光の中から来た魂を笑う場合にくらべるならば、その笑いは笑止な点がすくないということになろう」

 「それは、たいへん公平適切なお説です」と彼は答えた。




  四

 「それなら」とぼくは言った、「もし以上に言われたことが真実であるならば、われわれは、目下問題にしている事柄について、次のように考えなければならないことになる。すなわち、そもそも教育というものは、ある人々が世に宣伝しながら主張しているような、そんなものではないということだ。彼らの主張によれば、魂のなかに知識がないから、自分たちが知識をなかにいれてやるのだ、ということらしい、――あたかも盲人の目のなかに、視力を外から植えつけるかのようにね」

 「ええ、たしかにそのような主張が行われていますね」と彼は言った。

 「ところがしかし、いまのわれわれの議論が示すところによれば」とぼくは言った。「ひとりひとりの人間が持っているそのような〔真理をしるための〕機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内在しているのであって、ただそれを――あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように――魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて、実在および実在のうち最も光り輝くものというのは、われわれの主張では、<善>にほかならぬ。そうではないかね?」

 「そうです」

 「それならば」ぼくは言った、教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて、視力をはじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ」

 「ええ、そのように思われます」と彼。

 「そうすると、魂の徳とふつう呼ばれているものがいろいろあるけれども、ほかのものはみなおそらく、事実上は身体の徳のほうに近いのかもしれない。なぜなら、それらの徳はじっさいに、以前にはなかったのがあとになってから、習慣と練習によって内に形成されるものだからね。けれども、知のとくだけは、何にもまして、もっと何か神的なものに所属しているように思われる。その神的な器官〔知性〕は、自分の力をいついかなるときにもけっして失うことはないけれども、ただ向け変えのいかんによって、有用・有益なものともなるし、逆に無益・有害なものともなるのだ。それとも君は、こういうことにまだ気付いたことがないかね――世には『悪いやつだが知恵はある』といわれる人々がいるものだが、そういう連中の魂らしきものが、いかに鋭い視力をはたらかせて、その視力が向けられている事物を鋭敏に見通すものかということに?この事実は、その持って生まれた視力がけっして劣等なものではないこと、しかしそれが悪に奉仕しなければならないようになっているために、鋭敏に見れば見るほど、それだけいっそう悪事をはたらくようになるのだ、ということを示している」

 「まったくそのとおりです」と彼は答えた。

 「しかしながら」とぼくは言った、「そのような素質をもった魂のこの器官が、もし子どものときから早くもその周囲を叩かれて、生成界と同属である鉛の錘のようなものを叩き落されるならば、――この鉛の錘のようなものは、食べ物への耽溺だとか、それと同類のものの与える快楽や意地汚さなどのために、この魂の器官に固着してその一部となり、魂の視線を下のほうにと向けるものなのだが――、もしそういったものから開放されて、真実在のほうへと向きを変えさせられるとしたならば、同じ人間の同じこの器官は、いまその視力が向けられている事物を見るのとまったく同じように、かの真実在をも最も鋭敏に見てとることであろう」

 「ええ、そうありそうなことです」と彼。

 「ではどうだろう」とぼくは言った、「次のことは、そうありそうなこと、いやむしろこれまでに言われてきたところからすれば、必ずそうでなければならぬことではないだろうか?つまり教育を受けず、真理をあずかり知らぬ者には、国をじゅうぶんに統治することはできないが、そうかといってまた、教育を積むことだけの生活を終始するのを許されているような人々にも、それはできないだろうということだ。前者の場合は、公私におけるすべての行動が目指すべき、人生の一つの目標というものを、彼らがもっていないことがその理由であり、他方後者の場合は、そういう人々はまだ生きているうちから<幸福者の島>に移住してしまったようなつもりになって、すすんで実践に参加しようとはしないことが、その理由である」

 「おっしゃるとおりです」と彼。

 「そこで、われわれ新国家を建設しようとする者の為すべきことは、次のことだ」とぼくは言った、「すなわちまず、最もすぐれた素質をもつ者たちをして、ぜひとも、われわれが先に最大の学問と呼んだところのものまで到達せしめるように、つまり、先述のような上昇の道を登りつめて<善>を見るように、強制を課するということ。そしてそのつぎに、彼らがそのように上昇して<善>をじゅうぶんに見たのちは、彼らに対して、現在許されているようなことをけっして許さないということ」

 「どのようなことを許さないと言われるのですか?」

 「そのまま上方に留まることをだ」とぼくは言った、「そして、もう一度前の囚人仲間のところへ降りてこようとせず、彼らとともにその苦労と名誉を――それがつまらぬものであれ、ましなものであれ――分かち合おうとしないということをだ」

 「それを許さぬとなると」彼はたずねた、「われわれはその人たちに対して、不当な仕打ちをすることにはなりませんか?もっと良い生活が可能であるのに、より悪い生活を彼らに対して強いることにはならないでしょうか?」



 五

 ・・・









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* プラトン全集 11 プラトン著 クレイトポン 田中美知太郎訳 国家 藤沢令夫訳 岩波書店

* 国家 上下 プラトン著 藤沢令夫訳 ワイド版 岩波文庫








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