認識と普遍について極簡単に。
〔認識〕は。 わかること。 <それがそれである>と、気付くこと、見つけること、分かること、知ること。
<そのもの>が持つ本質的な特徴を捉え、その共通点、相違点に気付いていく。
<犬が犬である>とわかる。 「これ、な~に?」「わんわん」 「これは?」「わんわん」
これが幼児期初期の〔認識〕です。
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〔普遍〕は。 シェパードも犬、チンも犬、他の種類の犬も<犬が犬である>点で共通しています。
その、犬が持つ<犬が犬と分かる共通性>が分かる―さらに分類する、―<認識能力>で人間は共通しています。これが、〔普遍〕です。
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楽しく洗濯 : 通し作業^^でなくても出来ないときは ― 洗うだけ。ロープに止めるだけ。― などのように、部分部分の動作にとどめて楽しんでね。どうぞ臨機応変に。
洗濯ばさみを玩具に、並べたり、なが~くつないだりなどして、子ども達を自由に遊ばせたなら(発展性が見つからないので、子ども達はすぐに飽きてくる)、次につなげていきましょう。
洗濯ばさみは、なんといっても洗濯物が風に飛ばされないようにはさむ物ですね。
そうです。洗濯をさせていきましょう。
● 用意するもの *実物 (プラスチック製ではなくできるだけ自然物)
容器(桶・洗面器)大きいのは子どもたち複数で使える。 洗濯板、なければ木の板など。(なぜ溝がはいっているのかな?大きい子には彫刻刀で筋を入れる練習をさせても) 洗濯ばさみ 洗濯ロープ・竿
ハンカチ タオルなど。 靴下、下着、普段着などの子供服や大人物も徐々に加える。
● 洗濯しよう
せんたくしましょう♪ よごれたハンカチをあらってきれい~にしましょう♪
オノマトペもつかってたのしみましょう^^
大きい子も小さい子も、最初のうちは容器や板やハンカチを持って好きに遊んでいる状態でしょうね。
次に、気づかせながら、両手でゴシゴシ、チャぷチャぷ。
次に、容器に板を入れ、ハンカチを洗う仕草に、気付かせながら入ります。
水は入れたつもりでもOK・止むを得なければ。
水が十分に使えない託児所などでの保育を受けている子には、家でほんものの水を十二分はおろか二十分に遣わせるようにしよう。
本物の水を使い、水はどうなった?布はどうなった?・・・他にも色々と試していこう。
次に、よ~く洗ったハンカチを、絞って。
ロープに干して~
ハンカチを洗濯バサミで止めて~。
「うん。やったね。」
そう。そうなのです。
〔太陽サンサン、風にはためく〕洗濯物を見上げて、達成感!満足感!に思いっきりひたろう。
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乾いたハンカチを取り込んで~ (✡まだ、濡れている。✡まだ、湿っている。✡もう乾いた)
手でしわを伸ばし~ 角を合わせて~ たたみ~ます。
アイロンかけをしても良さそう。小さな火傷から熱さも知ろう。(脅して臆病な子にしないよう。熱についてからも、フー?フッ?と考えられる子にしていくこと!が大事です)
棚か箱か袋に仕舞って、取りあえず、おしまい。
★ 取り出して使おうね~ 汚れたらまた洗濯しよう~
* くれぐれも、子ども達を、ままごと、ごっこ遊び、ふり、見立て、等に陥らせないよう。
くれぐれも、子ども達を、ポエム、メルヘン、ファンタジー、夢の世界、花鳥風月の世界、等に駆り立てないよう。
― 先走り勝ち誇った表象は、真性認識の道・イデアの道・エネルゲイアの道、を閉ざす。
* 「おこられるぅ」
雨だぁー!水たまりピチャピチャ。水道水ジャアジャア。「ダメッ」「ダメッ」
お風呂の中だって「ふざけるな」「いい加減にしろ」と叱られる。
子ども達は、水遊び一つするにしても、「は~い、みずあそびをするじかんです」「はじめー」「わ~い!わいわい」「キャッキャ!キャッキャ!」
「は~い、おわりにしましょう」「やめー」「ほら!いつまでやっているー。いいかげんやめなさい」
いつまでも遣っていては;;; 当然のことの様に;;; 叱られる。よねぇ;;;
家庭でも園でも学校でも、子ども達は何事も決められた枠に沿って遣らされる。
自分が遣りたいときに遣りたいように自由にできる。指導してもらいながら。―大事な本物の自発性・主体性を発揮することは少しも許されていない。
― 揺るぎようもないがんじがらめの繋縛… 負の感情・負の心理・負の精神。
≪・・・人間達はこの住まいのなかで、子どものときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛めのめのために、頭をうしろへ・・・≫
『洞窟の比喩』プラトン
怒らない。説教しない。命令しない。押付けない。脅さない。(これも難しい・・・ね)
【 認識と普遍 】
すべての子どもは、〔水〕の本質に限らずありとあらゆるものの本質を自ら掴もうとしている―。概念化即ち認識化。
すべての子どもは、個々の概念、それら全てを収斂する統合概念〔ある・存在そのもの〕、を自ら掴もうとしている―。統合概念の認識化。
すべての子どもは、知らしめる宇宙公理の力に導かれ―、知らしめられよう知らしめられたいと希っている―。しりたい!しりたい!しりたい!しりたあーーい!! 公理を!!―自然の仕組み!地球の仕組み!全てを勿論小宇宙人間をも包含する大宇宙の仕組みを!!
(人造品より、公理に辿りつくのは至難の業、というより不可能)
知らしめる宇宙公理〔能動態〕、知らしめられるすべての人間の脳〔受動態〕。
存在する個々のものの本質を知らしめられ知ろうとする。〔受動態であると同時に能動態である〕
すなわち、考える・思惟思考。 発見する・認識化。 認識の道。
統概念〔存在概念(自己を含む)・ある〕の認識。あまねく人間は、人類は、認識の道を歩む。それは、普遍の道と折り重なっている。
≪ われおもう 故に われあり ≫ ルネ・デカルト(1596年-1650年)
師デカルトは、
――宇宙公理によって、私の脳は思惟・考えさせられ、私は考える。
そして、私の脳は、エネルゲイアとの協働により、私がいる・ある(存在する)ことを、パッ!と瞬時閃き、ハッ!と気付く(発見認識する)。間髪を入れず、私の脳は、その存在する私を見詰め認識する私、を凝視認識する。
故に、私はある(存在する)。
つまり、<われおもう>と<われあり>の間に<認識‐存在‐認識>が入る。
自己存在認識のみでなく、
全ての概念の真性認識:イデア:エネルゲイアは、大きく <思考> <認識> <存在> の段階を有し創出される。――
そう語っている、と解釈する。
大人は黒子に徹した主導権を、に・ぎ・っ・て・おこう。
家庭生活、園生活、学校生活など実生活の中で、子ども達がしぜんに実生活を実体験できるよう、
単に遊ばせるのではなく、子ども自身が実際に生活するなかで、実物・自然物に触れさせながら実際に遣らせ、<そのものがあること>を明瞭確実に気付かせていきます。
実体験を通し、自然物〔水〕の存在性、同一性、科学性等に気付かせ、水があらゆるものに関っていること・あらゆるものがあらゆるものに関りあっていることに気付かせ目覚めさせていきます。
「そんなことぉ―、学校に上がれば習うのに、なにも家でさせなくても」
「幼児にさせることではない―し」
学ぶのではなく、
幼少期に幼児自身が、《考える。根源から根源を考える。そして気付く・認識する。また、考える。・・・》
宇宙開闢時、宇宙公理によってプログラムされた法則、に導かれ、
すべての子が、人間が、人類が、これに気付きたい!これを知りたい!認識化したい!と希っている。
人類普遍の道である、真性認識の道、イデアの道、エネルゲイアの道、に踏み込む。
幼年期に、主体―自分で、自分が。
大人の助力を背にして。
『 認識の道を歩む 』 『 普遍の道を歩む 』
―― 歩みは、すくなくとも、人間生誕時にはすでに始まっている。
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