ピロソピア愛知

幼年期のピロソピーかんがえる

未來の子 ピロソピア知性 未来の人類

2013-03-31 | 未来の子 ピロソピア知性 未来の人類


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『言葉と物』 第十章 人文諸科学

 ともかく、ひとつのことがたしかなのである。それは、人間が人間の知に提起されたもっとも古い問題でも、もっとも恒常的な問題でもないということだ。比較的短期間の時間継起と地理的に限られた載断面――すなわち、十六世紀以後のヨーロッパ文化――をとりあげることによってさえ、人間がそこでは最近の発見であるという確信を人々はいだくことができるにちがいない。知がながいこと知られることなくさまよっていたのは、人間とその秘密とのまわりをではない。そうではなくて、物とその秩序に関する知、同一性、相違性、特徴、等価性、語に関する知を動かした、あらゆる変動のなかで――すなわち、《同一者》のこの深い歴史のあらゆる挿話のなかで―― 一世紀半ばかり以前にはじまり、おそらくはいま閉ざされつつある唯一の挿話のみが、人間の形象を出現させたのである。しかもそれは、古い不安からの開放でも、千年来の関心事の光りかがやく意識への移行でも、信仰や哲学のなかに長いこととらわれてきたものの客観性への接近でもなかった。それは知の基本的諸配置のなかでの諸変化の結果にほかならない。人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
 もしもこうした配置が、あらわれた以上きえつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲がり角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば―― そのときこそ賭けてもいい、・・・・



言葉と物――人文科学の考古学  ミシェル・フーコー 著  渡辺一民・佐々木明 訳  新潮社





【 ソピア知 】


  <宇宙公理を希求し、宇宙公理を認識し、宇宙公理と対話する> という人間の本性となって出現した脳本来の純粋な働き:宇宙公理そのもの同一態 〔ソピア知〕 は、― 少なくとも宇宙開闢時より、自己進化の乱流に翻弄され、幾多の変遷を経、暗中模索、試行錯誤、失敗失敗又失敗又々失敗、極々僅少貴重な成功を積み重ね、<宇宙公理を認識する同一者>今日の人間その頭脳として自らを具現化し、物体・身体という形象を保有し、感覚知覚的にも実存しうる存在者となり、 ― 現在 人類の師―ソクラテス、プラトン、アリストテレスの活躍した古代ギリシャ時代の頃から、ミシェル・フーコー (1926-1984) の現代まで、ようやく<ここまで>辿り着いた。
 表現をかえるなら、<そのとき>は、疾風怒濤の勢いで目前に迫り来ている。   
  


 * 「さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって」

 「何らかの出来事」とは、― 人類の師ソクラテス=プラトンが著作『洞窟の比喩』で説く、― 住み慣れた生活の場、つまり真実体の認識かなわず、ものの影・非実体のみしか感知認識できないでいる暗く狭い洞窟の中の生活から、陽光燦々とあまねく照りそそぎ、ものみなその正体・真実体を明晰に顕示する地上〔イデア〕世界へと(不安と恐怖に苛まれながら、全ての人間・人類がこぞって)脱出する、こと。

 人類洞窟脱出 それは、地球・人間精神世界を厚く被覆し尽くす <暗幕 フリードリヒ・ニーチェ 1844-1900 が一気に引き剥がされる激変、また、フーコ―の説く地球・人間精神世界の<地盤>が一気にくつがえされる激変等と、表現する言葉などは異なるが、内実はピタリ合致する同一の出来事である。その出来事が、パノラマを目の当たりにするかの如く、感知可能となった人々に驚愕や感動、強烈な印象を与えながら、近未来の人間人類の現象及び本体両世界において、沈着確実に粛粛として展開されていくのである。

 ―― 





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【 未来  未来の知性 未来の子 未来の人類 】


―― 人類は、 ―― 早晩、 ―― <そのとき>を迎える。

―― 人間本性覚醒による洞窟脱出。

―― それにもとづく人類進化完遂の<そのとき>。

―― 間違いなく。 

―― 



宇宙進化の必然

 ―― 真性認識の創造誕生により、〔ソピア知〕は人間・人類の本性として現実態となる。

 ―― 新旧間にミッシングリンク介在の空白もなく明々白々、人間の本性そのものでもある〔ソピア知〕に目覚めた人間〔ピロソピア知性〕が創出されるのと入れ替わり、これまでの<眠った>人間・人類は消滅する。

 ―― それに伴い、負の感情、負の心理、負の精神、それら過誤にまみれながら永永と構築されてきた、負の文化・伝統、負の文明、負の歴史もまた相伴って終極にいたる。


覚醒した人間より成る、覚醒した人類。

覚醒をもって、その進化を完遂させた人類は、新規まき直しの文化文明の黎明、―― 

真! 輝かしい! 真人類歴史の夜明け! を迎える!



進化完遂・目的をはたした〔ソピア知〕― 宇宙公理

進化完遂をはたした〔ピロソピア知性〕 ― 未来の子 未来の人間 未来の人類


ホモ・サピエンス・サピエンス・ピロソピー

未来の人類 ホモ・ピロソピー




さらに進みゆく 〔ソピア知〕 〔ピロソピア知性・未来の子・宇宙の子〕 ―――――


 

















未来の子 負の心理

2013-03-31 | 未来の子 負の心理

飛躍的な人類の進化を遂げようと、希求する未来の子。その行く手を遮る負の心理。 




【乳幼児・ 子どもたちの真に健全な心身の発達の為に 】


■ また、運動量も甚だしく不足。子ども達でごった返す室内を、定番の玩具を手にし、あてどもなく右往左往して日々を過ごす子ども達。

* 屋内屋外を問わず、日常生活を送りながら、常に、少しでも、五体を動かす自由な運動ができるよう涙ぐましい努力が。
辛うじて、たった一つの、貴重この上ない、運動用具となっていた、片付けられたベッドを出し、安全性に十分注意工夫を施したうえで使わせてあげよう。

* ベッドはその様な運動や遊びに使うものではない、との固定観念に捕われず、また危ない、見苦しい、片付けよう、との短兵急な考えではなく、せめて、よじ登る降りるの登はん運動(本能)が少しでもできるように、<子どもは何を求めているのか>を優先して考えていく。

* 児童や大人がする運動を基準に、幼児は未熟でまだ出来ないのだからこの程度でよいだろうとの短絡的な判断によるのではなく、発達を踏まえた考察の上で、他にも運動できるものを工夫し備える。





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 【 負の心理 】

 ☆ 深層でうごめく舅姑根性 村社会根性 島国根性等

 そこには、「子どもごときに、naninaniさせてなるものか!」といった子ども・弱者に対して大人・強者が抱える相手を見下す優越感情・支配心理が無意識のうちに働く。それが害されると、「我慢ならない」「沽券に関る」「メンツが立たない」と、子ども相手に気分を損ね、益々意固地になり、自分が優位に立つまでむきになって理屈をこじ付け意見を正当化し、尊大な意地を張り通してやまない大人たち。
 日本では、嫉妬にひがみ被害妄想等々絡む舅姑小姑根性、重箱の底で有象無象隅を楊枝で突っつきあう村社会根性、飛行機はおろか船の影さえ掠めもしない島国根性、などに含まれている。
 時代の変遷と共にこれらの言葉は使われなくなっている。しかし、上辺の姿は移り変わっても人の心理が変わることはない。


 ☆ 支配心理・被支配心理 馴致心理・被馴致心理等

 有史前、人間が人間以前の人間のときより、世代から世代へと継承され続け現代である今日に辿り着いてもなお、そうと気付かれない、負の心理。
 それらの心理は変様するのみで何ら変質なく、今もなお人々の心底に根強く残存する。 

 人々を我欲達成のために役立てる道具と、徹頭徹尾そう見做す支配者の根本にとぐろを巻く、傲慢不遜極まりない支配者の心理、それとは裏腹に、元始 他よりいち早く支配欲に目ざめたその征服者・支配者による元始制圧、統治のため、疑いも抗う意思もその術も全く皆無、幼児同然の未成熟な原始頭脳のまま、瞬く間に制圧、馴致され、従順な隷属化の挙句、課せられる元始奴隷元始家畜の労役、元始不当であり過酷な労働の日々であるに関わらず、家畜のように為されるがままを安んじて受入れる他に道はなく、当の支配者に征圧され馴致され奴隷化されたことにも、我が身に何が起こったかさえも意識できず、ひたすら恐れ多くして、ひたすら貴く有難く、ひたすら恭順の意を表し続ける元始の人々・私たちの祖先、被馴致者・被支配者、その心理。
  
 大は、神(自然の脅威)にたいする人々の畏怖畏敬の念を巧みに弄し、― 神の威を図々しくも狡猾にちゃっかり素早く確りと着服、<神の衣を身に纏い>(ニーチェ)、わが身を神格化し、民衆以前の民衆・民以前の民・人以前の人々を威嚇し、<電光石火>の勢いで、目論み通り恐怖に怯え震え慄く人々をいとも容易く制圧し、馴致し服従隷属させ、統御、君臨する東西問わない征服者、古代酋長・専制君主における支配欲、および両者、神の威を借り何食わぬ顔をして神に成済ます者とそれを畏れ敬い盲従させられる者との関係から、 小は、支配欲、詭謀が他に先んじて突出したそれらの者に恐怖心を掻き立てられ、いとも簡単に元始奴隷狩りされ馴致・制御され、人間本性の芽が、芽吹く先から先へと完膚なきまでに殲滅された惨禍に起因する、太古の昔より現在に至るまで普く人々の真髄に遺伝・相承され続けてきている、繋縛され”頭をめぐらす”ことも身動き一つとることもできず無論逃れることも避けることもできないできている、意識に昇ることさえも絶無できている、被圧殺感、その現存し続ける被圧殺感、・・・等々をもって、強者が弱者を、弱者がより弱者を、より弱者がよりより弱者をと類同の仕打ちをもって弱者を甚振る・苛めいびり賎しめ貶め遣り込め痛め付け打ちのめし叩き潰す、何が何でも人間の本性人間の尊厳を殲滅しようとせずにはいられない、負の感情連鎖― 親子間、兄姉弟妹間、保育教育者と被保育教育者(子供達)間、大人同士、子ども同士、また動物の虐待等々、それらにおよぶまで。


 神・自然の脅威に恐れ慄き、
その前に平伏し、額ずき畏まり、崇め奉ろうとする、人間精神根源に由来する、― 
すべての人間の真髄に巣食い蔓延っている、負の感情、負の心理、負の精神。





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■ 学習の即刻中止

 「小学校の授業を参考に、国語・算数・体育・生活・(英語まで)など、それぞれ時間割りを組んで幼児に学習させている。子どもたちも喜んでやっている。これで良し」―得々と自画自賛、自己満足に終始しているのみの自分に気付こう。

百害あって一利なし。保育幼児教育が、学校教育の物真似であってはならない。――

☆ 将来、学校教育もまた、幼児教育と共に遷移する仕儀となる。


 子どもたちは、自然を見たい! 自然を知りたい! 自然を考えたい! 考えさせて欲しい! 邪魔立てしないで!!考えさせて欲しい!! と、脳の内奥より純粋に切望し懇願している。
 地球の自然、 生物・非生物、 自然現象、 太陽・月・星々など天体の運行、 等々に触れさせ関心を向けさせ探究心を引き出させていく。

 子ども・人間が望むすべての物が自然の中に潜在・顕在している!

その自然を <自力で見させ、 自力で考えさせ、 自力で発見させ、 自力で明晰確実に知覚認識化させる> 覚醒・目覚めさせていく導きが最も大事である。

<自分が見る> <自分が考える> <自分が発見し、自分が明瞭で確実な認識をする> 本物である自然を介して基礎概念覚醒に基く <思惟及び認識> を最重要視し、そのための指導を主軸とする。



■ 基本的生活習慣を身につけることは勿論大事。しかし、これは一般的な社会生活をしていれば自然に身についていく類のものである。また、自己確立ができれば自立もするし、自律もする。
おしっこが言えない、ご飯をこぼす、服が着れない。― 心配して、しつけ躾けと神経質にならなくてもいいのですよ~。



■ 平面画像、映像等の視聴厳禁

 子ども達のためとの思いを込めて作られた玩具や知育用具などの人造品。特に、視覚に依存したグッズ、絵本雑誌、アニメ・ゲームなどの動画、生活雑貨や必需品にプリントされたキャラクター・略画、等々。
 たとえそれが視聴覚用教材であろうと、名画であろうと、画像は、幼い脳の真性な活動 〔人類の師ソクラテスの思惟と認識・人類の師プラトンの思惟と認識・人類の師アリストテレスの思惟と認識、と同じ、エネルゲイアと協働の脳活動。 これは、『洞窟』の外の世界・イデア世界での脳活動となる〕 を阻み、止めを刺す。

 それら画像を通じて生ずる概念・認識は、仮性(疑似)概念・仮性(疑似)認識であり、仮性概念・仮性認識が先行すれば、脳の真性な働きによって創出される真性概念・真性認識は、燦燦と煌めきふりそそぐ陽光を浴びる空きもなく暗闇に葬られ、黙然として無念の涙を呑むばかりである。



■ 脅しで、子どもの恐怖心を煽る。

 年中行事や、日常生活をおくるなかで一般的慣習として深く根付いている子どもに対する脅し。

・伝統を伝えていくのは大切だから ・怖がる様子が面白いから ・言うことをきかないから、 
・絵本から ・動画から ・玩具から 等々のグッズから、垂れ流し状況で、与えつづけている恐怖。

常日頃より疑問一つ抱かず、子どもに投げかけ続ける様々な脅し文句。脅し。

 一たび恐怖心が起こると「コワイこわい」と頭のなかは恐ろしさで溢れかえる。恐怖に脳を占拠されると、大人であっても子どもであっても、茫然自失<なにも考えられない情態>思考停止に陥る。

 また、脅されて、大人の言うことをよく効くいい子になったとしても、恐怖によって自分の思考・判断・言動は遮られ、その一挙手一投足が操り人形として踊らされているにすぎない様相となってくる。

ここに、自分は存在しない。存在するのは自分ではない自分。もぬけの殻、虚空が広がる。 ・・・ 自己喪失

* 威嚇し、恐怖に怯え震え慄く原始の人々をいとも容易く馴致し、服従隷属させ、統御する古代征服者を丸ごとコピーする大人たちの態、また、コピーされる・焼き付けられる子どもたちの態がここにもある。
 文化伝統を大義に謳い。


何かにつけて脅されている子どもたち。恐怖来襲、また来襲。それが、日常化して・・・

 その悪習も世界的視野の立場より改めていこう。


■ その他、多々。




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 保育の目標として掲げられている信条が、本質的な誤りであり、望ましい方向を捻じ曲げている為、育つ子!育つ子!が皆!発達障害児!発達異常児!発達不全児!精神不全児!になっている。 

 根本原因は、人間本性に背反した生活を子ども達にさせている。― 良かれと信じ込んでの行いではあるが、結果として、背反した生活を強要し、強制し、否も応もなく強引に実践していること。
 それにより、乳幼児期に伸びるべき心身の発達、感覚機能も運動機能も・・・精神も・・・、伸びるべき芽を全く伸ばしてもらえない・壊滅状態での子ども達の発達成長。

そうして育てられてしまった子ども達(人間)。

 子ども達(人間)の本性は、鋼鉄の手かせ、足かせ、くび木を、一つガチャリ、また一つガチャリ、・・・ 
次から次へと嵌め込まれ、桎梏の時空に掛けられていく。― 人間本性の極刑。


子どもたち(人間)皆が、無惨極まりない犠牲児となっている。

 無念。なんと無念であることか。

子どもたちにとって。人間にとって。人類にとって。― 地球にとって。宇宙にとって。




 改めるにあたって、まずは、
 自己の経験、自己の認識からくる偏狭矮小で浅薄頑迷な信念に拘泥することなく、また自分にとって何かと都合の良い意見に相乗的に陥り固執することなく、乳幼児のその折その折の心身の状態、発達の状態を乳幼児に学び、外部の識見ある専門的な見解を含めた良識ある周囲の意見・本音に、本心より真剣に広く大きく目を見開き耳を傾ける真摯な内省が求められる。教育面に限らず保育全般にわたり。
 それから、 ――




 <未来を担う子ども達のために!>






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原始テクノロジー ハイテクノロジー

2013-03-31 | 原始テクノロジー ハイテクノロジー
 洗濯ばさみ遊び 洗濯遊び



このとき、子どもが真に求めているのは、

ハイテクノロジーではなく、原始的なテクノロジーでの、洗濯遊び、水遊び、ここに歴然として潜在する水の本質等である。

それを求めていけば、地球にあるもの宇宙にあるもの様々なものに、自ずと関り合ってくる。

導き方により、生活用品の小物ひとつからも、幼い探究心は限りなく広がり展開していく。

 *今はたまたま洗濯ばさみから、自然探究に進もうとしているに過ぎない。

導く大人側はそれを観取し、子どもが必要としている物(物的環境)を整え、必要としている言葉(人的環境)を与えていく。





● 現実を窺うと、商業主義に作り手も買い手もみんな揃って踊らされている社会の一面がある。

 「最新型の車や洗濯機等々を、子ども向けにコンパクト化した玩具として売り出そう」「これは良い物ができた!」「おとなも納得するに違いない」「こどもも喜ぶぞ!」「自信作だ!」と心からそう思ってやまない送り手側の大人たち。(今に始まったことではないですね)

そうして作られ店頭に並べられた商品や、カタログやテレビCMを目にし、「これは、良い物が見つかった!」「誕生日のプレントにしよう」「こどもも喜ぶぞ!」と心底喜んでいる買い手側の大人たち。

「これ欲しい!あれ欲しい!買って!買って!」と子ども達。
「ガマンすることを、教えなくては」と大人達。・・・



● 子どもが真に欲しているものには遠くおよばない大人達の思惑。

大人の思惑によって、善し悪し関係なく与えられるものすべてが決定付けられてしまう子ども達。

思惑によって選ばれ与えられた、ハイテク玩具に取り囲まれ嬉々として遊ぶ子ども達。



 すでに大人である我々は、人類の頭上を覆う暗霧、『洞窟』『暗幕』、巨大なマインド・コントロールの間隙を縫い、鳥瞰し、冷徹な慧眼をもってその光景を透視しなければならない。


そして、気付こう!ハイテク玩具の奴隷となり、精神発達障害・脳機能不全への路上を虚ろい彷徨っている、哀れな幼い姿に!

子ども達は、本心からそれらを欲しがっているのではない。気付いてやろう!



● 幼児期の脳が望んでいるのは、原始テクノロジーである。

 洗濯機に汚れたタオルを入れスイッチオンにしておけばタオルは綺麗になっているミニ判。リモコンポチポチ、くるくるパッパッ入れ変わり行く目前の画像。最末端の機器に成り果て、身じろぎもしない・幼い脳が縛り付けられ身じろぎもできないでいる子どもたち。
子どもが望むのは、そうした現代のテクノロジーではない。


 原始テクノロジーの原理原想起を飛び越え、いきなりハイテク玩具を与えられた幼い脳は混乱するばかりで、<原理・公理を探究するぞ!>の強い気持ち(未意識)には結びついていかない。


混沌カオス渦巻きただよう子どもの脳内。秩序コスモスは遥か彼方に佇み、陰も見えない。



育てる。子どもが真に望む原始テクノロジーを基盤に据え、おのずと関わりあっている自然へと広く大きく門戸を開き、育てる。


ここから、子どもは<真に考える>思惟の門をくぐり、イデアに向け真直ぐに伸びて行く。




! ! 目覚めよう! 目覚めてやろう! 未来の子ども達・次期人類のために!















認識の道 普遍の道

2013-03-31 | 認識の道 普遍の道

 認識と普遍について極簡単に。

 〔認識〕は。 わかること。 <それがそれである>と、気付くこと、見つけること、分かること、知ること。
<そのもの>が持つ本質的な特徴を捉え、その共通点、相違点に気付いていく。
<犬が犬である>とわかる。  「これ、な~に?」「わんわん」  「これは?」「わんわん」 
これが幼児期初期の〔認識〕です。
・・・・
 〔普遍〕は。 シェパードも犬、チンも犬、他の種類の犬も<犬が犬である>点で共通しています。
その、犬が持つ<犬が犬と分かる共通性>が分かる―さらに分類する、―<認識能力>で人間は共通しています。これが、〔普遍〕です。
・・・・




楽しく洗濯 : 通し作業^^でなくても出来ないときは ― 洗うだけ。ロープに止めるだけ。― などのように、部分部分の動作にとどめて楽しんでね。どうぞ臨機応変に。


 洗濯ばさみを玩具に、並べたり、なが~くつないだりなどして、子ども達を自由に遊ばせたなら(発展性が見つからないので、子ども達はすぐに飽きてくる)、次につなげていきましょう。

洗濯ばさみは、なんといっても洗濯物が風に飛ばされないようにはさむ物ですね。

そうです。洗濯をさせていきましょう。


● 用意するもの *実物 (プラスチック製ではなくできるだけ自然物)  

容器(桶・洗面器)大きいのは子どもたち複数で使える。 洗濯板、なければ木の板など。(なぜ溝がはいっているのかな?大きい子には彫刻刀で筋を入れる練習をさせても) 洗濯ばさみ 洗濯ロープ・竿 

ハンカチ タオルなど。 靴下、下着、普段着などの子供服や大人物も徐々に加える。


● 洗濯しよう

せんたくしましょう♪ よごれたハンカチをあらってきれい~にしましょう♪
オノマトペもつかってたのしみましょう^^

大きい子も小さい子も、最初のうちは容器や板やハンカチを持って好きに遊んでいる状態でしょうね。

次に、気づかせながら、両手でゴシゴシ、チャぷチャぷ。

次に、容器に板を入れ、ハンカチを洗う仕草に、気付かせながら入ります。

水は入れたつもりでもOK・止むを得なければ。
  水が十分に使えない託児所などでの保育を受けている子には、家でほんものの水を十二分はおろか二十分に遣わせるようにしよう。 
  本物の水を使い、水はどうなった?布はどうなった?・・・他にも色々と試していこう。

次に、よ~く洗ったハンカチを、絞って。

ロープに干して~

ハンカチを洗濯バサミで止めて~。

「うん。やったね。」 

そう。そうなのです。 

〔太陽サンサン、風にはためく〕洗濯物を見上げて、達成感!満足感!に思いっきりひたろう。

・・・・

乾いたハンカチを取り込んで~ (✡まだ、濡れている。✡まだ、湿っている。✡もう乾いた)

手でしわを伸ばし~ 角を合わせて~ たたみ~ます。

アイロンかけをしても良さそう。小さな火傷から熱さも知ろう。(脅して臆病な子にしないよう。熱についてからも、フー?フッ?と考えられる子にしていくこと!が大事です)

棚か箱か袋に仕舞って、取りあえず、おしまい。


 ★ 取り出して使おうね~ 汚れたらまた洗濯しよう~






* くれぐれも、子ども達を、ままごと、ごっこ遊び、ふり、見立て、等に陥らせないよう。
   くれぐれも、子ども達を、ポエム、メルヘン、ファンタジー、夢の世界、花鳥風月の世界、等に駆り立てないよう。

  ― 先走り勝ち誇った表象は、真性認識の道・イデアの道・エネルゲイアの道、を閉ざす。



* 「おこられるぅ」

雨だぁー!水たまりピチャピチャ。水道水ジャアジャア。「ダメッ」「ダメッ」
お風呂の中だって「ふざけるな」「いい加減にしろ」と叱られる。

      
 子ども達は、水遊び一つするにしても、「は~い、みずあそびをするじかんです」「はじめー」「わ~い!わいわい」「キャッキャ!キャッキャ!」 
「は~い、おわりにしましょう」「やめー」「ほら!いつまでやっているー。いいかげんやめなさい」

いつまでも遣っていては;;; 当然のことの様に;;; 叱られる。よねぇ;;;


 家庭でも園でも学校でも、子ども達は何事も決められた枠に沿って遣らされる。
自分が遣りたいときに遣りたいように自由にできる。指導してもらいながら。―大事な本物の自発性・主体性を発揮することは少しも許されていない。

― 揺るぎようもないがんじがらめの繋縛…  負の感情・負の心理・負の精神。

≪・・・人間達はこの住まいのなかで、子どものときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛めのめのために、頭をうしろへ・・・≫
 『洞窟の比喩』プラトン




怒らない。説教しない。命令しない。押付けない。脅さない。(これも難しい・・・ね)



【 認識と普遍 】


 すべての子どもは、〔水〕の本質に限らずありとあらゆるものの本質を自ら掴もうとしている―。概念化即ち認識化。
すべての子どもは、個々の概念、それら全てを収斂する統合概念〔ある・存在そのもの〕、を自ら掴もうとしている―。統合概念の認識化。
すべての子どもは、知らしめる宇宙公理の力に導かれ―、知らしめられよう知らしめられたいと希っている―。しりたい!しりたい!しりたい!しりたあーーい!! 公理を!!―自然の仕組み!地球の仕組み!全てを勿論小宇宙人間をも包含する大宇宙の仕組みを!!
(人造品より、公理に辿りつくのは至難の業、というより不可能)

 知らしめる宇宙公理〔能動態〕、知らしめられるすべての人間の脳〔受動態〕。
存在する個々のものの本質を知らしめられ知ろうとする。〔受動態であると同時に能動態である〕
すなわち、考える・思惟思考。 発見する・認識化。 認識の道。
統概念〔存在概念(自己を含む)・ある〕の認識。あまねく人間は、人類は、認識の道を歩む。それは、普遍の道と折り重なっている。



≪ われおもう 故に われあり ≫ ルネ・デカルト(1596年-1650年)

 師デカルトは、

――宇宙公理によって、私の脳は思惟・考えさせられ、私は考える。

そして、私の脳は、エネルゲイアとの協働により、私がいる・ある(存在する)ことを、パッ!と瞬時閃き、ハッ!と気付く(発見認識する)。間髪を入れず、私の脳は、その存在する私を見詰め認識する私、を凝視認識する。

故に、私はある(存在する)。

つまり、<われおもう>と<われあり>の間に<認識‐存在‐認識>が入る。

自己存在認識のみでなく、

全ての概念の真性認識:イデア:エネルゲイアは、大きく <思考> <認識> <存在> の段階を有し創出される。――

 そう語っている、と解釈する。








大人は黒子に徹した主導権を、に・ぎ・っ・て・おこう。


 家庭生活、園生活、学校生活など実生活の中で、子ども達がしぜんに実生活を実体験できるよう、
単に遊ばせるのではなく、子ども自身が実際に生活するなかで、実物・自然物に触れさせながら実際に遣らせ、<そのものがあること>を明瞭確実に気付かせていきます。

 実体験を通し、自然物〔水〕の存在性、同一性、科学性等に気付かせ、水があらゆるものに関っていること・あらゆるものがあらゆるものに関りあっていることに気付かせ目覚めさせていきます。 



 「そんなことぉ―、学校に上がれば習うのに、なにも家でさせなくても」
 「幼児にさせることではない―し」 


学ぶのではなく、


幼少期に幼児自身が、《考える。根源から根源を考える。そして気付く・認識する。また、考える。・・・》


宇宙開闢時、宇宙公理によってプログラムされた法則、に導かれ、

すべての子が、人間が、人類が、これに気付きたい!これを知りたい!認識化したい!と希っている。


人類普遍の道である、真性認識の道、イデアの道、エネルゲイアの道、に踏み込む。

幼年期に、主体―自分で、自分が。

大人の助力を背にして。





『 認識の道を歩む 』 『 普遍の道を歩む 』

―― 歩みは、すくなくとも、人間生誕時にはすでに始まっている。

















人類の師ソクラテスの考える

2013-03-17 | 人類の師ソクラテスの考える

人類の師ソクラテス・人類の師プラトン・人類の師アリストテレスの思惟と認識



■ 子ども達は、決め付けで叱られ、威圧的な力で押え付けられ、・・・て いないと、一人また一人、また皆が皆一斉に我を失くし、魂を失ったものキョンシーの振る舞いを連想させる動作で、不意と立ち上り、われもわれもとばかりに四方八方好き勝手な方向に、ぴょんぴょこピョンピョコと跳び跳ね回りゆく~。

――悪夢のように異様な現実。

わいわいと賑やかで楽しそうに遊んでいるかのように見受けられる子ども達も、その内情は同じ、キョンシーの騒乱。

そして、子ども・幼児達は小学生になる。
学校においても同様の状況が繰り広げられる。当然の成り行きである。



■ 感覚・知覚・認識

 聴かないのではない聴けない、見ないのではない見えないでいる。
子どもと大人の理解能力は異なる。大人とは異なる子どもの<聴く>等、感覚知覚。

「みんな、おふざけしないでよく聴いて」と言えば、「は~い!」と反射的に答えてはいる。
しかし、分かって返事をしている訳ではない。
音声「きく」が耳から入っても子どもの脳は、その意味を感受できないでいる。

「この子は分かっている」「意思の疎通は十分図られている」と感じたとしても、大人の感覚とは大きく隔たる子どもの感覚。大人は、そこに生ずる微妙な差違を感知できないため、自分の考え方、遣り方を善意、また信念、はたまた意地をもって、ひたすら教え込もうとする。しかし、

 幼少期の注意力、集中力、思考力、精神力等は、密接に、自然に触れていられる健常な日常生活をおくるなかで付けられていき、そして始めてそれら情報を正しく理解し判断し行動できるようになる。
その発達段階が抜け落ちている・育てられていないため、子ども達の脳は、それを知覚認識できない=分かることが出来ない状態に陥っている。
脳が言葉をキャッチ出来ない。― 何度注意されても同じことを繰り返すのも小さな現れの一つ。

無念な限りの子ども達。 



■ 知の希求 

 そんな子ども達のなかで、自分が本当に欲しているものを探し出そう、自分を見付け出そう、とより強く願っている子が。――

みんなで仲良く遊んでいる最中にも、いつしか一人離れポツネンと壁にもたれ座り込んでしまう子ども達。
その意識に昇ってこない心のうちでは、
「自分が望んでいるのは、そうした悪戯ごっこ、ふざけっこ、ごっこ遊び、ままごと遊び、物まね、手遊び、うそっこ見たて、勉強などではない」

「もっと違うこと!」「それが分からない!」「それはなに!」「おしえてくれ!」「くるしい!」「たすけて!」と絶叫している。

 求める正体も分からない。どうしたらよいのか、自力ではなす術も見つからない。
また、周りの子の言動に釣られることもない。ポツネンとせざるを得ないでいる子ども達。

 大人たちは、それを<社会性に欠け気味であり心配>ととらえてしまい、みんなと仲良く遊べるようにと優しい心遣いをしていく―。

そのような子ども達も、また、一人遊びに没頭してしまう子どもたちなども、無念な限り・・・。



 そんな子、あんな子、こんな子、すべての子ども達の心底は、苦しい!助けて!考えたい!考えさせて欲しい!との願いが渦巻いている。
封じられ、考える力を失いかけた絶望的なまでの知の希求、・・・



■ クイズやパズル、ブロック、ゲーム等、知育玩具・教具で考えるとは異次元の<考える>、学習、学ぶ・習う・覚える等とは異次元の<考える>、テストの問題や答を考えるのとは異次元の<考える>、頭の良し悪しに関係のない、それとは異次元の<考える> ・・・




■ 人類の師ソクラテス・人類の師プラトン・人類の師アリストテレスの考える


宇宙すべてを司る宇宙公理によって知らしめられる、師ソクラテス・師プラトン・師アリストテレスの思惟思索、<考える>。 


人間、幼年期は、師ソクラテス=師プラトン=師アリストテレスの思惟思索、と同次元の<考える>脳機能が活動する。
 
幼い脳であっても、その働きは、師ソクラテス=師プラトン=師アリストテレスの脳と同じである。



 <師ソクラテス=師プラトン=師アリストテレスの思惟、発見、認識>

―― 宇宙公理が自らの《存在・ある》を、自ら創出した宇宙に存在する万物全般にわたり、知らしめようとする働きかけ〔能動態〕、その発信を知らしめられようと受信する人間の脳〔受動態〕の働き〔能動態〕。認識化に向け、そこに湧き起こるエネルゲイア。そして、宇宙公理を発見認識する人間 ― 師ソクラテス・師プラトン・師アリストテレス。

―― 自然を介し、公理より知らしめられている働きかけをキャッチする。つまり、自然からの刺激を通じて、感覚し、知覚する。その感覚・知覚を通して、自然界に存在する宇宙公理を考える(知らしめられる)。 ― 人間幼年期。

―― もはや感覚・知覚を隔絶した『思惟のみによる思惟』による思惟により、すべてを司る宇宙公理、存在、その有無、を考え:知らしめられ、思惟し、発見認識する人間 ― 師ソクラテス・師プラトン・師アリストテレス。




■ 次期人類、進化の前兆者の方々 ― ピロソポス愛知者

宇宙開闢・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・銀河系誕生・・・・・・太陽系誕生・・・地球誕生・・・・・・・・・・
・・・・・・・・地球生命誕生・・・・・・・・・
人類誕生・・・・・・・・・

・・・・ 夜空を見上げ、星がある”存在”に気付いた方々 ― ― ― ― ― ”汝自身を知れ”の碑文を刻んだ方 ― ― ― パルメニデス-ソクラテス-プラトン-アリストテレス ― ― ― ― デカルト ― ― ニーチェ ― ― フーコー - ドゥルーズ
・・・・ ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― アルキメデス ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― Mr.ホーキング
・・・・ ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―リンネ ― ダーウィン ― ― ― ― 
・・・・ 洞窟の壁に、躍動する動物の姿を描いた方々 ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ダ・ヴィンチ ― ― ― ― ― ― ― ゴッホ
・・・・ ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ベートーベン ― ― ― ― ― 
そして、ヘレン・ケラー、三重の感覚等障害であっても、<洞窟を抜け出た人><イデアの人>となることを実証する方。(後年になって社会主義思想に走りましたが…、幼年期に水・水・水・と水に触れたとき触覚を通じジジジーンパハッと存在概念≪ある≫に目覚めました・覚醒)


■ この真性認識に到達する<考える>は、すでに大人となっている我われにはわからない。 

しかし、子どもたちを、それがわかる人間<イデアの人><洞窟を脱出した人・人類><次期人類><ホモ・サピエンス・サピエンス・ピロソピー>に育てることはできる。

すべての子どもたちが、それを希っている―・

かつての我われも同じように、それを希っていた―・

今となっては、なに一つ思い起せない―・



 『すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する』 知求心は人間の本性。

人間は、何を知ろうと欲するか? 

―公理― それは公理。それが公理。宇宙公理を真性に知ること〔真性認識化〕を欲する。

すべての子どもの真髄には「公理が知りたい!」「自力で考えたい(思惟思索) どうしたら考えられる?!」「教えて!」との悲痛な願いが!大人への期待が!渦巻き、うっ積する。

 * 公理・法則・秩序 : 生き物や地球の仕組み等、全てを包含する宇宙の仕組み・コスモス。

乳幼児期はそれら宇宙公理の基礎概念を目覚めさせる時期、大切な、大事な、期間である。


また、乳幼児の言動はすべて本性・基礎概念の覚醒希求が基盤となり起こっている。無論意識はない。

それらを洞察し、その基礎概念覚醒の手助けをしていくのが、私たち大人のこれからの役目である。



■ 塞がれた脳機能、塞がれた精神。負の精神。負の心理。
 ―すべての子ども達が最悪の犠牲者。つまり、全人類が最悪の犠牲者― 

 狭い狭い『洞窟』に封じられた脳機能、小さい小さい『洞窟』に閉じられた精神、に起因する、
人の粗捜し、蹴落とし、苛め苛められ、嫌がらせ、嫉妬くすぶり焦げ付く悪口雑言誹謗中傷、不健全の極みスパイ根性、稚拙陰険、卑小卑劣な闘争心、征服欲、権力欲、支配欲、…
脅威、権威、権力に、ひたすら迎合、恭順、従順、阿諛追従する。それら強者・凶者・狂者に向かう言葉はなく、弱いもの・虐げられしものがより弱いものを虐げる。またお互い同士、牽制し、足を引っ張り、虐げ、傷つけ、潰しあう。そして、助け合ったりもする…
村社会心理、島国根性…。負の心理―。



 負の心理

深淵の恐怖、始原恐怖をもとに発生の負の精神。負の精神より派生の負の心理―。


狭い狭い小さい小さい牢獄に封じ込められた…人間の脳を席巻し、一人゛放埓勝手な猛威をふるう負の精神、負の心理―。

人類の頭上を覆い絡みつく漆黒のヴェール、負の精神、負の心理―。

その執拗にして頑強に癒着・硬化した漆黒のヴェールを、引き裂き、打ち壊し、はね飛ばし、 ――




  生じる亀裂を押し開き、イデアは芽吹く。








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※ すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感官知覚・・・

  アリストテレス全集 12 形而上学 アリストテレス著 出 隆 訳 岩波書店 





『 すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する 』

<普遍><認識>

<普遍の道≡人間の本性≡認識の道>

<人類普遍の道を歩む≡人類認識の道を歩む>


人類、普遍の道とは、認識の道であり、人類、認識の道とは、普遍の道である。



 














苛め、苛められ、その心理の消滅

2013-03-16 | 苛め、苛められ、その心理の消滅

 いじめ心理の消滅。いじめられ心理の消滅。 変わる子ども(人間)たち。 



 長い歴史の中で、<子どもは悪戯をするもの>との社会通念が定着している。

 この無邪気で片付けられている幼年期のいたずら、ちょっかい、からかい、わがままかって、悪ふざけ、いじわる、嫉妬心、好奇心、排他性、・・・等が増長して陰湿な苛めに進展していく。(叱責や説教では問題解決につながらない)



● Rくん(5歳3ヶ月)

 一人の子を標的に「くせぇー」などと叫び攻撃し大声で皆を扇動する。皆も図に乗りはやし立てる。
このまま進めば、紛れもなく社会的な苛めになっていく。


 しかし、蟲・自然を見始めて態度は変わり落ち着いてきました。

 始めて、生きたナメクジを間近で見て。「?!」「!」「!」「!」・・・・・・・・「かわいい!」「すんげぇーかわいい!」
「つのが! ある!」「1本!2本ある!」「これも!」「ちっさいのが!ある!」「2本ある!」ぜんぶで「4本ある!」

「さわりてぇ~!」 ナメクジは、寄生虫の心配もあるのでむやみにさわれません。とはいえ、

「さわりてぇ~!!」「さわりてぇ~!!!」

さわれないのはわかっている―、でもさわりたい―。

むしんにさわりたい―。

こらえても、おさえても、さわりたいおもいが、にじみみなぎりほとばしる―。


「つのを、ちょんとさわってごらん」

「わっ!ひっこんだ!」「でてきた!」ひっこんだ!でてきた!ひっこんだ!でてきた!

部屋中がRくんパワーでみなぎっている~!~!


 彼の熱中さに圧倒された周りの子たちも、こわごわの引っ込み思案はどこかに素っ飛んで、引き込まれ、緊張し、固唾を呑んで一緒に魅入っている。



見終わったRくん、「まめくじ!みてェー!」「ひゃっぴき、みてえー!」と瞳も声も活き活きと、真底から叫んでいる―。


 もっと! もっと! 自然に触れていたい! 自然を見ていたい! 自然を吸収したい! ・・・・との希求です。




二回目のかんさつで、かれが気付いたことの一つ。


「色がちがう!」「ここ!ここ!」「これ!これ!」「ちゃいろ!」ナメクジの背に茶褐色の筋が通っていることに気が付きました! 


大人には何でもないこと。「それがどうした」「なんになるくだらない」いわゆる「はらのたしになるのか」としか思われないのですが、

幼児期の脳にとって《それを、そうと、気付く》、モヤモヤの混沌概念が明晰確実な概念(真性概念 即 真性認識)となって自己の中で認識化できた!大発見!なのです。

 自分が本当に知りたいと未意識に切望いしている(宇宙公理によって知らしめられている)ものを蟲・自然の中に見つけ・気付き・発見し、気持ちがそれに向かって集中し始めました。
<注意力に目覚め、観察する、及び思考する・本当の考える、そして発見!認識!する>探究への入口を見つけました。



 また、周りに他の子・友達がいることに、改めて気付き、友達を気遣う!優しさ!思いやり!もでてきました。


● 自己中心で我欲の塊りSちゃんも、友達を気遣う!優しさ!思いやり!が出てきています。


● 園随一の問題児、との名をほしいままにしているというSくんも。

また、Sくんに限らずGちゃんもそうですし、他の子もRくん同様に変わってきている様子が窺えます。



★ どんなに優れた名作であっても、アニメ等人造品から探究心や優しさ思いやりなどが誕生することは決してありません。
その<影>は、眼前を掠め去るばかりで心の真底・脳真髄・脳内奥に届くことはないからです。
しかし、蟲・自然観察からこれほど直接的に誕生するとは驚き。


★ ぞくぞくと連なっている発達障害児また問題児等は、反面、その精神が社会のシガラミ:社会通念・既成概念観念等に健常児ほど縛られていません。

それは、それだけ自由で純粋な発想・思考が可能なことを意味しています。

問題を抱えている子ども達は、心身ともに落ち着きなく、探究心も集中力等も現われていませんが、無い訳ではありません。
それは、一つの切っ掛け-導き方で現れてきます。

その純粋な探究心に伴なう<真の思考>を真っ直ぐ伸ばして遣れたなら・・・。

 蟲から始まる<真の自然観察>により、健常児を超えた健常児=真性概念に目覚めた子・イデアの人になっていく―。

― 健常児も異常児も、 ― 世界中すべての子が ―


★ 将来、人間生来の希求 『知るを欲する』 をかなえる育児教育が生誕時より行われる様になれば、苛めっ子も苛められっ子も、問題児も、発達障害児も異常児も、そして、いわゆる健常児も作り出さなくて済むことになる。





***********





<子どもは悪戯をするもの>との社会通念は、見かけ上からの臆見に過ぎない。

 すべての子ども達は、<本当に求めているもの>が見つけられず、止むを得ず、恣意の赴くがまま、翻弄されるがまま、悪戯をしている。幼年期の苛めもその一つである。


 大人の理解と手助けにより、すべての子に、

自然の中に顕然と潜在する宇宙公理・宇宙秩序・コスモスを知ろうとする気持ちに目覚め、

自ら考えよう、自ら知ろうと無心に没頭し邁進できる、物的環境・人的環境が与えられるなら、

その結果の一つとして、苛め心理も苛められ心理も根底から消え去り、

その、歪められた心理から発生する犯罪も消え失せる。



それは、戦争消滅にも繋がっていく。



――いじめ、いじめられ、その心理がなくなれば、戦争もなくなる――

――宇宙戦争。仮想すら成り立たない――





・・・・・ これら尽くが、人間本性の覚醒に副次する結果である。
















イデア

2013-03-15 | イデア


 イデアとは何か。


 古代ギリシャ思想‐プラトン思想として学び、理解し、記憶し、仮性概念〔イデア〕となっている知識を教示はできる―。


しかし、それは、人間脳真髄そのまた奥より、エネルゲイアとなりうねりをあげてほとばしり脳内に出現してきた真性概念〔イデア〕とは似て非なる概念である。




 イデアとは何か。―― わからない。


人類は、人類として、いまだイデアと出会えていないため。


それは、人類として、いまだに知られていない脳機能である。




― ただ、プラトン思想として、音に聞くばかり ―


そうした私たちであっても、子ども達を<イデアの人>に育てることはできる。



時代は今以て<負>へと逆行しているが、宇宙の歴史は、地球の歴史を、人類の歴史を、またその時代を包含し暗中模索、試行錯誤を繰り返しながらも大きく激しく<正>へと向かい脈動している。


すべての子が<イデアの人>となる。

そのときは間近い。








  * 言及


真性のロゴス概念、即、真性のロゴス認識。これがイデアである。

真性認識とは、自身の脳がパッ!と瞬時ひらめきハッ!と覚醒し気付いた認識である。
――カオスの概念化即コスモス・エネルゲイア現実態として、自らの脳内に鮮明に創出された認識。
同時に、
秩序化されたかつての混沌に、自ら明晰確実に気付いた認識である。

つまり、それに自ら気付くと同時に、それを知った結果<これまではそれを知らないでいた>というその実相を知る・自ら知ることになる。(これもまた公理によって知らしめられる)


 『無知の知』 ソクラテス、プラトン、そしてアリストテレス

知った我がいる・我有り、と自己の存在に気付く。

その自己存在に気付いた我自身が、<それまで我の存在に気付けていなかった我自身・それに気付く以前の知らないでいた我自身>の存在に気付く・認識する。

――我は自己の存在を認識し得たがゆえに、それを認識するまで無知であった我の過去の存在をも認識し得た――

―― これが、『無知の知』である。














洞窟の比喩 プラトン

2013-03-14 | 洞窟の比喩 プラトン著


『 国家 』  プラトン著

C 哲人統治者のための知的教育 

 1 「学ぶべき最大のもの」(認識の最高目標)――<善> 第六巻 十五~十七章

 2 <善>のイデア=太陽の比喩。第六巻十八章~十九章

 3 線分の比喩。第六巻 二十章~二十一章 

 4 洞窟の比喩。第七巻 一章~五章

 5 「魂の向け変え」と「真実在への上昇」のための教育のプログラム。第七巻 六章~十八章



* 哲人統治者のための知的教育 :

《洞窟を抜け出た人》:《イデアに目覚めた人》:《進化完遂した人》:《進化完遂を果した次期人類》:《ホモ・サピエンス・サピエンス・ピロソピー》を育てるための知的教育、その理念を導き出し示し教える師ソクラテスと若者の対話内容となっている。

 <教育と無教育>を狭義に捉えているとこれらの説は「うん?なに?どういうこと?」と混乱して、おそらく理解できないでしょう。
 若者すべてを(子どものときから)、哲人ピロスポスに育てるための教育をする。
そうした教育をおこなった結果、あらわれた統治者(リーダーというより、単なるだいひょうまとめ役)も当然哲人ピロソポスとしての資質を兼ね備えている。
 現代の今は、そのように考えると理解しやすいかもしれません。





 洞窟の比喩


 一

 「ではつぎに」とぼくは言った、「教育と無教育ということに関連して、われわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれたまえ」

――地下にある洞窟状の住まいのなかにいる人間達を思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった入口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間達はこの住まいのなかで、子どものときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛めのために、頭をうしろへめぐらすこともできないのだ(a b)。彼らの上方はるかのところに、火(i)が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。

 この火と、この囚人たちのあいだに、ひとつの道(e f)が上のほうについていて、その道に沿って低い壁のようなもの(gh)が、しつらえてあるとしよう。それはちょうど、人形遣いの前に衝立が置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、同じようなぐあいになっている」

 「思い描いています」とグラウコンは言った。

 「ではさらに、その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他のいろいろの材料で作った、人形およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んでいくものと、そう思い描いてくれたまえ。運んでいく人々のなかには、当然、声を出すものもいるし、黙っている者もいる」

 「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人達のお話ですね」と彼。

 「われわれ自身によく似た囚人達のね」と僕は言った、「つまり、まず第一に、そのような状態に置かれた囚人達は、自分自身やお互いどうしについて、自分たちの正面にある洞窟の一部(cd)に火の光で投影される影のほかに、何か別のものを見たことがあると君は思うかね?」

 「いいえ」と彼は答えた、「もし一生涯、頭を動かすことができないように強制されているとしたら、どうしてそのようなことがありえましょう」

 「運ばれているいろいろの品物については、どうだろう?この場合も同じではないかね?」

 「そのとおりです」

 「そうすると、もし彼らがお互い同士話し合うことができるとしたら、彼らは、自分たちの口にする事物の名前が、まさに自分たちの目の前をとおりすぎて行くものの名前であると信じるだろうとは、思わないかね?」

 「そう信じざるをえないでしょう」

 「では、この牢獄において、音もまた彼らの正面から反響して聞こえてくるとしたら、どうだろう?彼らのうしろを通り過ぎていく人々の中の誰かが声を出すたびに、彼ら囚人達は、その声を出しているものが、目の前を通り過ぎていく影以外の何かだと考えると思うかね?」

 「いいえ、けっして」と彼。

 「こうして、このような囚人達は」と僕は言った、「あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう」

 「どうしてもそうならざるをえないでしょう」と彼は言った。

 「では、考えてくれたまえ」と僕はいった、「彼らがこうした束縛から解放され、無知を癒されるということが、そもそもどのようなことであるかを。それは彼らの身の上に、自然本来の状態へと向かって、次のようなことが起る場合に見られることなのだ。

――彼らの一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができないだろう。

 そのとき、ある人が彼に向かって、『お前が以前にみていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、物を見ているのだ』と説明するとしたら、彼は一体なんと言うと思うかね?そしてさらにその人が、通り過ぎていく事物のひとつひとつを彼に指し示して、それが何であるかをたずね、むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して、以前に見ていたもの〔影〕のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとはおもわないかね?」

 「ええ、大いに」と彼は答えた。




   二

 「それならまた、もし直接火の光そのものを見つめるように強制したとしたら、彼は目が痛くなり、向き返って、自分がよく見えるもののほうへと逃げようとするのではないか。そして、やっぱりこれらのもののほうが、いま指し示されている事物よりも、実際に明確なのだと考えるのではなかろうか?」

 「そのとおりです」と彼。

 「そこで」と僕は言った、「もし誰かが彼をその地下の住まいから、荒く急な登り道を力づくで引っぱって行って、太陽の光の中へ引き出すまでは放さないとしたら、彼は苦しがって、引っぱっていかれるのを嫌がり、そして太陽の光のもとまでやってくると、目はぎらぎらとした輝きでいっぱいになって、いまや真実であると語られるものを何一つとして、見ることができないのではなかろうか?」

 「できないでしょう」と彼は答えた、「そんなに急には」

 「だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。――まず最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水にうつる人間その他の映像を見て、後になってから、その事物を直接見るようにすればよい。そしてその後で、天空のうちにあるものや、天空そのものに目を移すことになるが、これにはまず、夜に月や星の光を見るほうが、昼間太陽とその光をみるよりも楽だろう」

 「ええ、当然そのはずです」

 「思うにそのようにしていって、最後に、太陽を見ることができるようになるだろう――水その他の、太陽本来の居場所ではないところに映ったその映像ではなく、太陽それ自体を、それ自身の場所において直接しかと見てとって、それがいかなるものであるか観察できるようになるだろう」

 「必ずそうなるでしょう」と彼。

 「そしてそうなると、こんどは、太陽について次のように推論するようになるだろう、――この太陽こそは、四季と年々の移り行きをもたらすもの、目に見える世界におけるいっさいを管轄するものであり、また自分達が地下で見ていたすべてのものに対しても、ある仕方でその原因となっているものだ、と」

 「ええ」と彼は言った、「つぎにそういった段階に立ちいたることは明らかです」

 「するとどうだろう?彼は、最初に住まいのこと、そこで<知恵>として通用していたもののこと、その当時の囚人仲間のことなどを思い出してみるにつけても、身の上に起ったこの変化を自分のために幸せであったと考え、地下の囚人達をあわれむようになるだろうとは、思わないかね?」

 「それはもう、たしかに」

 「地下にいた当時、彼らはお互いのあいだで、いろいろと名誉だとか賞讃だとかと与え合っていたものだった。とくに、つぎつぎと通り過ぎていく影を最も鋭く観察していて、そのなかのどれが通常は先に行き、どれが後に来て、どれとどれとが同時に進行するのが常であるかをできるだけ多く記憶し、それにもとづいて、こらからやって来ようとするものを推測する能力を最もおおくもっているような者には、特別の栄誉が与えられることになっていた。――とすれば、君は、このいまや解放された者が、そういった栄誉を欲しがったり、彼ら囚人たちのあいだで名誉を得て権勢の地位にある者たちを羨んだりすると思うかね?むしろ彼は、ホメロスがうたった言葉と同じ心境になって、かの囚人たちの思わくへと逆もどりして彼らのような生き方をするくらいなら、『地上に生きて貧しい他人の農奴となって奉公すること』でも、あるいは他のどんな目にあうことでも、そのほうがせつに望ましいと思うのではないだろうか?」

 「そのとおりだと私は考えます」と彼は言った、「囚人たちのような生き方をするくらいなら、むしろどんな目にあってもよいという気になるでしょう」

 「それでは、次のこともよく考えてみてくれたまえ」とぼくは話をつづけた、「もしこのような人が、もう一度下に降りて行って、前にいた同じところに座を占めることになったとしたら、どうだろう?太陽のもとから急にやって来て、彼の目は暗黒に満たされるのではないだろうか」

 「それはもう、大いにそういうことになるでしょう」と彼は答えた。

 「そこでもし彼が、ずっとそこに拘禁されたままでいた者たちを相手にして、もう一度例のいろいろな影を判別しながら争わなければならないことになったとしたら、どうだろう――それは彼の目がまだ落ち着かずに、ぼんやりとしか見えない時期においてであり、しかも、目がそのようにそこに慣れるためには、少なからぬ時間を必要とするとすれば、そのような時、彼は失笑を買うようなことにならないだろうか。そして人々は彼について、あの男は上に登って行ったために、目をすっかりだめにして帰ってきたのだと言い、上に登って行くなどということは、試みるだけの値打ちさえもない、と言うのではなかろうか。こうして彼らは、囚人を解放して上のほうへ連れて行こうと企てる者に対して、もしこれを何とか手のうちに捕らえて殺すことができるならば、殺してしまうのではないだろうか?」

 「ええ、きっとそうすることでしょう」と彼は答えた。













洞窟の比喩 プラトン 続  

2013-03-14 | 洞窟の比喩 プラトン著


  三

 「それでは、親しいグラウコンよ」とぼくは言った、「いま話したこの比喩を全体として、先に話した事柄に結び付けてもらわなければならない。つまり、視覚を通して現われる領域というのは、囚人の住まいに比すべきものであり、その住まいの中にある火の光は、太陽の機能に比すべきものであると考えてもらうのだ。そして、上にいって上方の事物を観ることは、魂が<思惟によって知られる世界>へと上昇して行くことであると考えてくれれば、ぼくが言いたいと思っていたことだけは――とにかくそれを聞きたいというのが君の望みだからね――とらえそこなうことはないだろう。

 ただし、これが真実まさしくこのとおりであるかどうかということは、神だけがしりたもうとことだろう。とにかくしかし、このぼくに思われるとおりのことはといえば、それはこうなのだ。――知的世界には、最後にかろうじて見てとられるものとして、<善>の実相(イデア)がある。いったんこれが見てとられたならば、この<善>の実相こそはあらゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならぬ。すなわちそれは、<見られる世界>においては、光と光の主を生み出し、<思惟によって知られる世界>においては、みずからが主となって君臨しつつ、真実性と知性とを提供するものであるのだ、と。そして、公私いずれにおいても思慮ある行いをしようとする者は、この<善>の実相こそ見なければならぬ、ということもね」

 「私もまた、同じ考えです」と彼は答えた、「私に理解できるかぎりでは」

 「さあそれは」とぼくはつづけた、「次のことでも同じ考えになってくれたまえ。そして、けっして驚かないようにしてくれたまえ――上の世界に行ったことのある人々は、世俗のことを行う気にならず、彼らの魂はいつも、上方で時を過ごすことを切望するということを。それは当然のことだろうからね。いやしくもこの点について、こんども先に語られた比喩のとおりであるとするならば」

 「ええ、たしかにそれは当然のことです」と彼は言った。

 「ではどうだろう、次のことは、何か驚くに足るようなことだと思うかね?」とぼくは言った、「神的なものを観照していた人が、そこを離れて、みじめな人間界へと立ちもどり、その場の暗闇にじゅうぶん慣れないで、まだ目がぼんやりとしか見えないうちに、法廷その他の場所で、正義の影あるいは其の影の元にある像について、裁判上の争いをしなければならないようなとき、そしてそういった影や像が<正義>そのものをまだ一度も見たことのないものたちによって、どのように解されているかをめぐって争わなければならないようなときに、へまなことをして、ひどく滑稽に見えたとしても、これは驚くに足ることだろうか?」

 「いいえ、ぜんぜん驚くに足りません」と彼は答えた。

 「むしろ、心ある人ならば」とぼくは言った、「目の混乱には二通りあって、その原因にも二通りあるということを、想い起こすことだろう。すなわち、光から闇に移されたときに起る混乱と、闇から光に移されたときに起る混乱とがそれだ。そして、これとまったく同じことが魂の場合にも起こるということを認めるならば、ものをよく見定めることができずにまごまごしているような魂を見ても、わきまえもなしにただ笑うというようなことはしないだろう。むしろ、その魂はもっと明るい生活のなかからやって来たので、不慣れのために目がくらんでしまっているのか、それとも、もっとひどい無知の状態のなかから比較的明るいところへ出てきたので、以前よりは明るい輝きのために、目がちかちかと火花でいっぱいになっているのか、そのどちらかであるかを、よくしらべてみることだろう。そしてそのようにしらべたうえで、一方〔前者〕の魂に対しては、そのような状態と生き方を幸せであるとみなすだろうし、他方〔後者〕の魂に対しては、あわれみを感じるだろう。その場合、その魂のことを笑いたくなったとしても、上方の光の中から来た魂を笑う場合にくらべるならば、その笑いは笑止な点がすくないということになろう」

 「それは、たいへん公平適切なお説です」と彼は答えた。




  四

 「それなら」とぼくは言った、「もし以上に言われたことが真実であるならば、われわれは、目下問題にしている事柄について、次のように考えなければならないことになる。すなわち、そもそも教育というものは、ある人々が世に宣伝しながら主張しているような、そんなものではないということだ。彼らの主張によれば、魂のなかに知識がないから、自分たちが知識をなかにいれてやるのだ、ということらしい、――あたかも盲人の目のなかに、視力を外から植えつけるかのようにね」

 「ええ、たしかにそのような主張が行われていますね」と彼は言った。

 「ところがしかし、いまのわれわれの議論が示すところによれば」とぼくは言った。「ひとりひとりの人間が持っているそのような〔真理をしるための〕機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内在しているのであって、ただそれを――あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように――魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて、実在および実在のうち最も光り輝くものというのは、われわれの主張では、<善>にほかならぬ。そうではないかね?」

 「そうです」

 「それならば」ぼくは言った、教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて、視力をはじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ」

 「ええ、そのように思われます」と彼。

 「そうすると、魂の徳とふつう呼ばれているものがいろいろあるけれども、ほかのものはみなおそらく、事実上は身体の徳のほうに近いのかもしれない。なぜなら、それらの徳はじっさいに、以前にはなかったのがあとになってから、習慣と練習によって内に形成されるものだからね。けれども、知のとくだけは、何にもまして、もっと何か神的なものに所属しているように思われる。その神的な器官〔知性〕は、自分の力をいついかなるときにもけっして失うことはないけれども、ただ向け変えのいかんによって、有用・有益なものともなるし、逆に無益・有害なものともなるのだ。それとも君は、こういうことにまだ気付いたことがないかね――世には『悪いやつだが知恵はある』といわれる人々がいるものだが、そういう連中の魂らしきものが、いかに鋭い視力をはたらかせて、その視力が向けられている事物を鋭敏に見通すものかということに?この事実は、その持って生まれた視力がけっして劣等なものではないこと、しかしそれが悪に奉仕しなければならないようになっているために、鋭敏に見れば見るほど、それだけいっそう悪事をはたらくようになるのだ、ということを示している」

 「まったくそのとおりです」と彼は答えた。

 「しかしながら」とぼくは言った、「そのような素質をもった魂のこの器官が、もし子どものときから早くもその周囲を叩かれて、生成界と同属である鉛の錘のようなものを叩き落されるならば、――この鉛の錘のようなものは、食べ物への耽溺だとか、それと同類のものの与える快楽や意地汚さなどのために、この魂の器官に固着してその一部となり、魂の視線を下のほうにと向けるものなのだが――、もしそういったものから開放されて、真実在のほうへと向きを変えさせられるとしたならば、同じ人間の同じこの器官は、いまその視力が向けられている事物を見るのとまったく同じように、かの真実在をも最も鋭敏に見てとることであろう」

 「ええ、そうありそうなことです」と彼。

 「ではどうだろう」とぼくは言った、「次のことは、そうありそうなこと、いやむしろこれまでに言われてきたところからすれば、必ずそうでなければならぬことではないだろうか?つまり教育を受けず、真理をあずかり知らぬ者には、国をじゅうぶんに統治することはできないが、そうかといってまた、教育を積むことだけの生活を終始するのを許されているような人々にも、それはできないだろうということだ。前者の場合は、公私におけるすべての行動が目指すべき、人生の一つの目標というものを、彼らがもっていないことがその理由であり、他方後者の場合は、そういう人々はまだ生きているうちから<幸福者の島>に移住してしまったようなつもりになって、すすんで実践に参加しようとはしないことが、その理由である」

 「おっしゃるとおりです」と彼。

 「そこで、われわれ新国家を建設しようとする者の為すべきことは、次のことだ」とぼくは言った、「すなわちまず、最もすぐれた素質をもつ者たちをして、ぜひとも、われわれが先に最大の学問と呼んだところのものまで到達せしめるように、つまり、先述のような上昇の道を登りつめて<善>を見るように、強制を課するということ。そしてそのつぎに、彼らがそのように上昇して<善>をじゅうぶんに見たのちは、彼らに対して、現在許されているようなことをけっして許さないということ」

 「どのようなことを許さないと言われるのですか?」

 「そのまま上方に留まることをだ」とぼくは言った、「そして、もう一度前の囚人仲間のところへ降りてこようとせず、彼らとともにその苦労と名誉を――それがつまらぬものであれ、ましなものであれ――分かち合おうとしないということをだ」

 「それを許さぬとなると」彼はたずねた、「われわれはその人たちに対して、不当な仕打ちをすることにはなりませんか?もっと良い生活が可能であるのに、より悪い生活を彼らに対して強いることにはならないでしょうか?」



 五

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