この讃美歌は、明治時代からキリスト教会で歌われている讃美歌です。
「1、主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ 我が主イエス、我が主イエス 我を愛す
2、我が罪のため 栄えを捨てて 天より降り、
十字架につけり
3、み国の門(カド)を 開きて、われを、招き給えり、勇みて昇らん」
『たといそうでなくても』安利淑 著の442~467
ペ-ジに満州生まれの女死刑囚が出てきます。
あまりにも狂暴で刑務所内でも、気ちがいと言われていました。日夜、大声で叫び、手錠を後ろ手にはめられ食事は犬のように食べる。92番と呼ばれる。小便大便も、服の中にしてしまい、悪臭が立ち込める。独房のため、寒そうであった。
安利淑も獄中で、気の毒に思い、祈ってから、この92番を自分と同じ房に移してもらう様、看守に依頼する。同房にいた、闇商売の女から満州語を習い、92番とコミュニケ-ションをとろうとする。最初は暴れていた92番も徐々に、心を開く。
私の全身はまるで、氷のように冷たいけれど、心臓の所だけは、ほのかに暖かく、この心臓の上に彼女の裸の両足をいれる。全身、ガタガタと震えが来た。しかし、彼女が目を覚まさない様にした。
92番は、10才の時に、じゃがいも一俵で父より年よりに売られた。
その92番は言う「私が小さい時でした、西洋人が来て、子供達を集めて教会へ連れて行かれた。
そこで、『主我を愛す』を習いました。私は、それが好きで、上手に歌えたので、みんなの前で何度も歌わされたのです。でも、私の父母は、私に仕事をさせるために、決して教会に行かせてくれなかった。私は、こっそり家を抜け出して教会に行ったため、父母にひどくぶたれました」
安史は、92番に言った
「イエス様は苦しむ人を捜しておられるのよ。神様の目には、大きな罪とか小さな罪とかは問題ではないの。いくら小さい罪でも、それを心からく悔いないのは、イエス様はおきらいですからね。ですから、いくら大きな罪を犯しても、悔いて苦しむ人を主は憐れんで下さるんですよ。だから
大きな罪を犯した人達が、かえって、とても良い信者になる例がたくさんあるのです。」
執行の日が来る。
あれほど、恐れた死は、彼女に全く征服されて、彼女はまさに死を押し退けながら、ゆうゆうと進んで行ったのである。
『死は勝利にのまれてしまった。
死よ、お前の勝利はどこにあるか。
…しかし、感謝すべき事は、神は、私達の主イエス・キリストによって、私達に勝利を賜ったのである。』(第一コリント15ー55)