聖書と共に

愛はいつまでも絶えることがない

今日は、Ⅰコリント13章です。
「愛は寛容であり、愛は情深い。又、ねたむ事を
しない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法を
しない、自分の利益を求めない、いらだたない。
恨みを抱かない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える
。愛はいつまでも絶える事がない。」

「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)からです。

パウロは、この章で、
「もし愛がなければ、一切は無益である」と宣言
している。預言ができ、あらゆる奥義、知識に
通じていても、自分の全財産を人に施しても、
殉教しても、もし愛がなければ、無益だと言う。

つまり、人間が努力精進し、人間による最高の
事を成しても、愛がなければ、ダメだと言う。
それなら、「愛」とは、どんなものであろうか。

この「愛」とは神の愛なのである。
神の愛がなければ、一切は無益だと言うのである。
この愛が人間が出せるものだったら、この13章は
一つの倫理に終わってしまう。
一般受けはしても、それは聖書が示すものでは
なくなってしまう。

最近、ガラテヤ人への手紙を読んで、新しく
教えられた。
「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」
             (ガラテヤ5-6)
この言葉だけをとり出して読むと、信仰が愛と
いう実を結んでいく実践的なものを求めている様
である。しかし、前から続けて読むと、
割礼があるとか、無いとかが、尊いのではなく
尊いのは、キリストの愛によって働く信仰なのだ。

ここでは、キリストの愛が言われているので、
私達の愛ではない、事を示されたのである。

人間の理想の愛とは、こういうものだ、と誤解し
やすい。
ここに述べられた愛は、私達に降り注いだ神の愛
なのである。そして、信仰、希望、愛の中で最大
のものは、神の愛なのだと宣言するのである。

4節から語られてる愛の姿、それはキリストと置
換えると、明らかになってくる。
キリストは寛容であり、……
もし、キリストが寛容でなかったら、私達は、
とっくに、主の幹から断ち切られていたに違い
ない。今日の私があるのは、全くキリストの寛容
の賜物である。

キリストは情深い。……
私達の弱さを本当に知っていて下さる方なので
ある。もし、私達が、人を裁く様に神が成される
のであれば、私達はキリストの群れから追放され
ていたに違いない。

何度も罪を犯し、何度も悔い改める様な者を、
信じ続けて下さった。
コリント教会も様々な賜物を持った人が集まって
いた。そこで、ついつい、自分の能力を誇って
けんけんごうごうと、していた時に、最も
優れた道を示そうと言って、パウロは、この愛を
説いたのである。

私達が、何か出来るかを考え、誇っている間は
まだ、キリストの愛に、本当に、打たれていない
のである。

つばきされて
私に代わって、つばきされたイエス様を
一日いっぺんぐらいは、思い浮かべたい

あるキリスト者の詩である。
私達の人生で長生きをしたとか、特別な事が、
出来たとかは、問題ではない。
この私の為に、辱しめを受けられた主イエスの
溢るる愛を思い浮かべ、感謝し、それに、あずか
る事こそ、最も大切な問題なのである。

    **************

十字架に手足を釘打ち付けられた主、
脇腹をやりで突き刺された主

いずれも私達の罪の為に成された愛の業



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