「ああ、愚かなるかなガラテヤ人よ。
十字架につけられたイエス・キリストが、
汝らの目の前に顕されたのに、いったい誰が
汝らを惑わしたのか? …
汝らが御霊を受けたのは、律法の行いによるか、
あるいは、聴いて信じた為か。」
「信仰による者は、これアブラハムの子です
信仰にある者は、信仰があったアブラハムと
共に祝福せられる。
しかし、律法の行いによる者は呪いの下にある。
「義人は信仰によりて生きる。」
「キリストは私達の為に、呪われる者となって、
律法の呪いより、私達を贖い出して下さった。」
アブラハムはBC2000年頃の人です。ユダヤ
人はアブラハムの子孫であり、アブラハムを
自分達の父と呼んでいました。
(ヨハネ8-39参照)
アブラハムは律法が、未だ、無い時に、神様
を信じて、信仰者の父となります。
アブラハムの死後、430年後のモーセの時
に律法は与えられました。
ユダヤ人は、アブラハムの信仰を受け継がな
いで、後の律法を重んじる民になりました。
ここから「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)
ガヤテヤ教会の人々が、イエスの十字架を
信じる信仰の確信や喜びがゆるんで来たのは
ユダヤ人の律法によって、聖霊が消された
からだとパウロは言う。聖霊の働きが無ければ、誰も「イエスは主」と告白することは
出来ない。
聖霊は電灯の様なもので(実際は人格の
ある神)、電灯がともらなければ、何も見えない。イエスがキリストである、という事は、
事実なのであるが、見えなければ存在しない
のと、同じである。
聖霊は、私達にイエスがキリスト(救い主)で
ある事を示してくれるものである。
私の目は肉の世界の事は見えるが、霊の世界
の事は見えない。
「『見える』と言い張るところに、あなたが
たの罪がある。」(ヨハネ9ー41)とイエスが言
われたが、具体的な生活の中で私達に見える
ものは限られている。
例えば、心なども、そうである。解剖しても
見る事はできない。その様に、イエスの力は、
私達の肉の目では見ることができない。
ただ、聖霊に照らし出される事によって、
認めていくことが出来る。
御霊によって、十字架のキリストにより他に
救いは無いことを示され、喜びに溢れた、
あの信仰の経験は、どうなったのか、と
パウロはガラテヤ人に言葉を継いでいる。
律法は、神の御旨に、かなわない自分を知ら
せてくれるものである。その事によって、私達、自身が、イエス・キリストに救われなけ
れはならない者である事を知るのである。
その意味において、律法は養育係である。