聖書と共に

種まきのたとえ

今日は、種まきの喩えと、「静まりと黙想の
朝に」から、ご紹介します。

大いなる群衆がイエス様の身元に寄り集まり
そこで、イエス様は喩えで話されました。
「種まく人がその種を蒔く為に出ていきます。
①蒔いた種が道の傍らに落ちた。
  踏みつけられ、又、空の鳥がついばむ。
②岩の上に落ちた種がある。
  生え出てきたが、水気がないので枯れた
③イバラの中に落ちた種がある。
  イバラも共に生え出でて、種を塞ぐ。
④良き地に落ちた種がある。
  生え出でて100倍の実を結んだ。
              
この喩えの心は
 種は神の御言。
①道の傍らに落ちたとは、聴きて後、悪魔が来
 て、信じて救われる事のない様に御言を、
 その人の心より奪う人の事
②岩の上にとは、御言を喜び受けるが、根が無
 いので、暫く信じて試練の時、退く人の事
③イバラの中に落ちたのは、聴き後、世の心労
 、財産、快楽とに塞がれて実らぬ人の事
④良き地とは、御言を聴き、正しく良き心にて
 これを守り、忍びて実を結んぶ人の事
             (ルカ8ー4~15)
「静まりと黙想の朝に」より
種まきのたとえは、神の御言を聴く姿勢が正し
ければ、必ず実を結んぶ様になると教える。

「道ばた」は、かたくな心を意味している。
先入観を持ち、それが、すべての判断基準とな
り御言を土の中(心)に入れない。

「岩の上」には、少し土があるので、芽は出る
が、根を伸ばせないので枯れる。一時的な熱心
を表している。硬い岩なる自我性が底にあると
、ちょっと何かあると倒れる。

「いばらの中」とは、神も快楽も欲しい人の事
である。人生に楽しい事があるのは、悪い事で
はない。しかし、神ぬきの楽しみは快楽となり
堕落となる。神を第一とする生き方こそ、楽し
みは健康的になる。

「良い地」は、御言を心の中に受け留める人の
事である。「良い心で、しっかり守る」とある
毎日、一句の御言を心に留めて生きる人は、
必ず実を結んぶ。種である御言自身に命がある
ので、実は結ばれる。

「御言を聴いて行う者こそ」(ルカ8ー21)と
あるが、「行う」と言うと、難しくて実行でき
ないと否定的に言う人がいる。
「行う」とは、種まきの話しにもある様に、
心に受け入れる人の事がある。そうすれば、
結果として、良い行いは、時と共に表れて来る

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