聖書と共に

アブラハムの末裔

今日も、昨日の続きです。
ヨハネ福音書の8章33~59節までにアブラハム
という名前が11回出てきます。
アブラハム(BC2166~1943年)は、イスラエ
ル民族の祖先にあたり、又、信仰の祖とも言え
ます。

 アブラハムは、ひとり子イサクをモリヤの山
献げようとしました。イサクには代わりの
牡羊がありました。
 父なる神は、ひとり子イエスをゴルゴダの丘
献げて下さいました。イエスの代わりのもの
はありませんでした。
父なる神の気持ちを一番、理解できたのは、
アブラハムでした。

ここから、バックストン「ヨハネ福音書講義」
です。
主イエスは、アブラハムの待ち望んでいた方で
した。また、慕っていた方でした。
 ユダヤ人はアブラハムの心に同情を表しませ
んでした。主は、この時から、少しずつ、
ご自分の栄光を言い表されます。

「世の光である」(12節)
「上から出た者である」(23節)
「永遠の命を与える」(51節)
「アブラハムが慕っていた者である」(56節)

「アブラハムが生まれる前から、私はいるので
ある」この「いる」とは「主」と同じ意味です
。「私は主である」というのと同様です。
ユダヤ人には、その意味が、よく判りました。
ですから「イエスは神の御名を汚す者である」
と思い、石を取り上げて投げ付けようとしたの
です。

主イエスは、ご自身の栄光を、お示しに
なればなるほど、ユダヤ人たちは、それを拒み
ついに、殺そうとするまでに至りました。

 ある人は、その様に導かれると、かえって
益々、主を拒みます。
ある人は、その啓示に従って次第に主を信じ、
ついに「わが主よ、わが神よ」とひざまずいて
叫びます。「私の体も魂も、すべての栄光も、
あなたのものです」と叫ぶ様になります。

 このユダヤ人たちは、主を拒んだ為に、主が
その栄光をはっきり現して下さった時でも、
信じて受け入れる力がありません。
私達は、それを受け入れますか。もし、それを
受け入れるならば、神は少しずつ完全な啓示を
与えて下さいます。

啓示は主の言葉によって受ける事ができます。
第一に神の言葉を聴く事です。心の耳によって
  聴く事です。
第二は、その言葉を守る事です。

「わざを信用しなさい」主は、どうにかして
信じさせようとして下さいます。
初めに言葉を与えて、言葉を信じなければ、
わざを与えて下さいます。

「もし私が来て、彼らに話さなかったら、彼ら
には罪は無かったでしょう。しかし今では、
弁解の余地はありません。私を憎んでいる者は
、私の父をも憎んでいるのです。もし私が、
他の誰も行った事のないわざを、彼らの間で行わ
なかったのなら、彼らには罪が無かったでしょう」         (ヨハネ15-22~24)


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