聖書と共に

み言葉が開かれると

今日は「静まりと黙想の朝に」(松木祐三著
)からご紹介します。
「み言葉が開けると光を放って、
 無学な者に知恵を与えます。
          (詩編119ー130)
無学な者とは、愚かな者を意味する場合も
あるが、同時に、単純な純粋な者の事を
意味する場合もある。

み言葉が開かれるのは、知識の有無には
よらない。ただ心を開いて主を求める者に
聖霊は、み言葉の奥深い意味を伝えてくれ
る。

それは、ただ聖書を知的に知るのではなく
体験的に知るものである。

み言葉を知るというのは、単なる知性を
満足させる事によって出来るものではない

例えば、偽りが私に入って来ると、一度に
み言葉がの真理は霧の様に消えてしまう。

ここから「新約聖書1日1章」(榎本保郎
著)からです。

2000年昔のイエス・キリストの十字架の
死が、私の罪の為である、という事は
説明したり、本を読んで納得のいくもので
はない。ただ、それに対してアーメン
(私もその様に信じます)と言えるのは、
聖霊の働きである。

イエスは真珠買いの商人の話をされた。
(マタイ13-45)。イエスをキリストであると
うのはオウムでも言う事が出来るであろう

だが、丁度、真珠買い人が、世界中くまな
く探して良い真珠を探し当てたならば、
自分の全財産を売り払って、買い取ろうと
した様に、
自分の罪が、どこに行っても解決する事が
出来ずに、解放者を探し求めて、やっと
イエスの十字架に行き着いた。
その喜びは、どうであっただろう。

「御子イエスの血が、すべての罪から
私達を、きよめるのである。」
     (ヨハネ第一の手紙1章7節)

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