聖書と共に

やがて申し開きをしなくては

今日も「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)
から抜粋し、ご紹介します。

「この様に、キリストは肉体において苦し
まれたのであるから、あなた方も同じ覚悟
で心の武装をしなさい。肉において苦しん
だ人は、それによって罪からのがれたので
ある。」  (第1ペテロ4-1)

 キリスト教信仰は、いつも少数者の宗教
であると思う。なぜ少数者であるかと言う
理由の一つは、キリスト教信仰は、即ち、
苦しみ、だからである。

普通、信仰すると言うのは、
 ① 楽しい生活になって行く。
 ② お金が、もうかる様になる。
 ③ 病人が健康になる。
と思いやすい。

しかし十字架を負って従って行くのが
キリスト教であり、そこでは、少なくとも
人間の欲望だとか、肉の願い等が否定され
ていく。
私達は信仰生活をしていく場合、私達自身
の中に、そういうものを厳しく選びとって
行く事が大切である。

キリスト教信仰をしながら、なるべく楽な
、楽しい、おもしろい事を求めていく様で
は、キリストとの交わりは無くなっていく
キリストから与えられるものを受け取らず
に、その回りのもので終わってしまう事に
なってはいけない。
人間は誰でも、苦しみは避けて通りたい、
しかし、苦しむ事によって信仰がためされ
純粋化されていく。

「彼らは、やがて生ける者と、死にたる者
とを裁く方に、申し開きをしなくてはなら
ない」  (第1ペテロ4-2)

人間には神が大きく見えたら、この世の事
が小さく見え、反対に、神が小さく見えて
くると、この世の事や、自分の事が非常に
大きく見えてくる。

パウロが
「ご自身の御子さえ惜しまないで、私達、
全ての者の為に死に渡された方が、どうし
て御子のみならず、万物をも賜らない事が
あろうか」 (ローマ8-32)
と言っている様に、彼には、神の愛が大き
く見えていた。

この世の色々の出来事や、流れの中で、
それでも、神はこう言われたのだから、と
言って、いつも心を確かにし、身を慎んで
、その確信に対して純粋に生きていくので
ある。

努めて祈りなさい、という事は、自分の
願いを言うのではなくて、むしろ神の御心
を聞いていく事である。

神のみ声を聞いていかなければ、私達は
この厳しい現実の中で、心を確かにして
いく事はできない。毎日、聖書を読んで
行かなければ、観念的な信者になる事は
できても、信仰者として生きていく事は
できない。

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