聖書と共に

杉原千畝

杉原千畝(1900~1986年) 外交官
ドイツの迫害から逃れて来たユダヤ人6000人の
ビザを発給し避難民を救った、として有名です。
早稲田大学高等師範 英語科に在学中、外務省留学試験を受ける。
1919年官費留学生として、ハルピンに派遣され
ロシア語を学ぶ。外務省書記生の身分のまま、母校ハルピンで、ロシア語講師を勤める。
1924年に白系ロシア人クラウディアと結婚。
ロシア正教会で洗礼を受ける。洗礼名はパウロ。
彼の好きな言葉は『神は愛なり、愛に居る者は神はおり、神も又、彼に居給もう』(ヨハネ第1、4-16) 』
1932年、満州国の外交部に出向。
千畝は、関東軍から、スパイになる様に強要されたが、これを拒否。これにより、満州国の官史として勤務する事は不可能となった。又、関東軍は、妻のクラウディアが、「ソ連側のスパイ」である、と流布した為、クラウディアと離婚。
満州時代の蓄えは離婚の際に、クラウディアとその一族に渡し、無一文で帰国。
帰国後、千畝は知人の紹介で菊池幸子と結婚、日本の外務省に復帰。
1939年、リトアニアの在カナウス日本領事館、領事代理となる。
1940年、ドイツ占領下のポーランドから多数のユダヤ人が、領事館につめかけた。男も女も、老人も、子供や赤ちゃんまで必死に助けてを求めていた。
千畝は「私に頼ってくる人々を見捨てる訳にはいかない。でなければ、私は神に背く」と妻に言い
幸子は「後で、私達がどうなるか分かりませんけど、そうして下さい」と言った。
それから2ケ月に渡って、6000人分のビザを発給し続けた。その後、ドイツ軍から逃げる様に、リトアニアを脱出。
第二次大戦後、千畝はブカレストの日本公使官でロシア軍に拘束された。
1947年、帰国。外務省を依願退職し、貿易会社で
働いていた。
28年後、一人のユダヤ人が、彼を訪ねて来た。千畝から発給されたボロボロのビザを持って。

偉業を称えられ千畝は
「大した事をした訳ではない。
当然の事をしただけです」と言っいます。


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