「ジキル博士とハイド氏」は1886年に刊行された。その時代はヴィクトリア朝(後期)であり、当時の小説の「読者は中産階級に属する上品さを重んじる女性が多い」(参考資料[1])という時代背景などから、小説の中では露骨かつ直接的な表現は品のないものとして避けられていた。したがってこの小説においても様々な表現方法によって人間の心の裏面や例えば暗い暴力性などの問題が隠されている。何がどのように隠されているのか、ハイド氏にまつわる表現を中心に検討してみたい。
最初に気付くのがハイド氏に対する嫌悪感の根拠に関する表現である。「あれほど嫌悪を感じさせられる人間に出会ったことがありません。それでいてその理由がわからないんです。」(P18)など、理由がわからない、説明できない(P30)判全としない(P30)などの記述が多く、はっきりとした根拠が直接的具体的には示されていない。読者の想像にまかせるというわけである。しかしヴィクトリア朝時代の読者であれば、この嫌悪感の根拠が、ナボコフが指摘するように(参考資料[2])「同性愛的所業であった」と推測することができるということだ。
しかしそれが明示されていないため、読者はさらに想像をめぐらすことができるのではないか。さらに隠されているもう一つのこととして暴力(サディズム)が想像できる。P13「倒れた少女の身体を平然と踏みつけ」という表現、さらに「カルー殺人事件」になるとさらに暴力性が増している。P41「相手をステッキで地面に叩きのめした。」「雨あられと打撃をあびせた」このような表現はハイド氏の暴力性を示しているが、そのことを押さえた上で以下の表現に注目したい。ジキル博士がハイド氏をこの世に生ぜしめる実験室、その入り口は「赤色の粗ラシャを張ったドア」(P47)である。「窓のない黒ずんだ建物」(P47)の内部でひときわ赤色が鮮やかなドアである。この赤色は血の色を媒介として暴力を示唆する。さらにこの小説においてドアは秘密への入り口、あるいは秘密を隠すものとしての比喩となっていることから、このドアの鮮やかな赤色は内部から暴力による血がにじみ出ているようなイメージを読者に抱かせる。その実験室の内部でジキル博士が夜中に歩き回る場面はこうである。「あの足音のひとつひとつに犠牲者の血がまとわり付いている」(P79)。さらにこの滲みでる血・暴力のイメージは、プールが額をぬぐうハンカチーフの色になって表れている。実験室内部で惨事が起きているという予感が心につきまとっているプールが、「寒さにもかかわらず」「額をふいた」のは「汗ではない」(P68)。
「苦悩にとらわれ」それゆえ「にじみ出ていた」「脂汗」である。「苦悩」とはハイド氏による暴力についての苦悩である。その「苦悩」からでた「脂汗」がハンカチを赤く染めているのである。またさらに、ジキル博士がハイド氏になるために飲む薬剤に配合されるのが「赤色のチンキ剤」(P97)である。チンキ剤というのは本来無色である。(正確な意味ではチンキ剤ではないがヨードチンキのようにヨードを用いる赤褐色の消毒剤で通称ヨードチンキと呼ばれているものもある。)いずれにしてもわざわざ「赤い」と形容詞を付けている、これはハイド氏の中の暴力性を暗示する表現であると考えられる。