ababa ...ひびのおたけび

CRPS・脊髄損傷…
病は体の自由を奪い痛みで蝕む
それでも私の心は自由で在り続ける
大空を羽撃く鳥の様に...

運命の日・・・

2005-02-16 20:00:00 | 日記
5年前・・・2000年・・・平成12216日は私にとって運命の日です。この日の午後5時より腰椎椎間板ヘルニアL4/5間のラブ法の手術を受けたのです・・・この手術を受けていなかったら・・・「人生に、『たら』『れば』はないけれど・・・」29歳を1ヶ月前に控えた今、何をしているでしょうか・・・念願叶って、富山に住み伊波彫刻の職人になる為に内弟子に入り、親方に厳しい指導を受けているのでしょうか?弟子入りして何年経っているのでしょうか?25歳で弟子入りして4月でもう5年目。辛かった内弟子期間も後1年で終わりです。どんな職人になっていたのでしょうか・・・目指していたのは、昔ながらの伊波彫刻の技を受け継ぐ職人。寺社彫刻・欄間彫刻・・・内弟子期間を後1年に残して、如何考えたでしょうか・・・このまま伊波に留まり独立、それとも長崎に戻って独立・・・それともまだまだ職人として親方の手伝いをするつもりなのでしょうか・・・
仕事では、幼い頃からの夢が叶い辛い内弟子生活も耐え、息抜きには400ccくらいのバイクでツーリングを楽しんでいる事でしょう・・・
これが私の夢であり、この夢を叶えるために手術に踏み切ったのです。
しかし、今の私は・・・車椅子姿になったこと自体、恥ずかしいとも見っとも無いとも思っていません。夢が叶えられなかった事だけが悔しくて悔しくて・・・悔やまれてならないのです。もしかしたら、車椅子になっていない、健康体のままでも叶わなかった夢かもしれません。でも、自分の身体が絶対に夢を追うことが出来ない身体になり、夢に真正面から向かえなかった・・・その事が如何しても心残りで、手術をしなかったら・・・手術後合併症など起こさなければ・・・と『たら』『れば』を繰り返してしまうのです。
今月から週3回3時間、短時間ですが仕事も始め社会復帰もしました。スポーツもバスケットを本格的にやってみようと思っています。新しい私の人生はスタートしました。今、自分が希望している仕事に就けたとしても・・・もしもパラリンピックに出場出来たとしても・・・10年後今の私の人生は充実している。と実感できても、伊波彫刻の修行を出来なかった。という事は心残りとしてずっと心の奥にあり続けると思います。
五年前の手術・・・もちろん生まれて始めての入院でしたし始めての手術です。2人目のオペと言う事で手術開始の時間がハッキリせず、そわそわしながらも前日飲んだコップ1杯の下剤が効いてトイレと術後の病室を往復していました。
オペ時間になり、筋肉注射を2本打たれても意識はハッキリしたまま3階のオペ室へと向かいました。
オペ後は、意識がボーッとしたまま母を見送り、何時間経ったか良く覚えていませんが、スゴク喉が痛く最初に看護婦に訴えた不快感は「喉が痛いんですけど」でした。その後キズの痛みが気になり始め、看護婦の「座薬使う?」でこれも、生まれて初めて座薬を使いました。オペ前どんなに痛くても、座薬に抵抗感があり使った事はなかったのです。そこまでは準夜勤務の看護婦が対応してくれていました。座薬のおかげでキズの痛みも少し和らぎ休む事が出来ていました。次に目が覚めたのは・・・下腹部の暴満感でした。バルーンカテーテルを入れているのに、尿が出てこないのです。点滴からは大量の輸液が身体に入ってきています。本来ならドンドン尿として管からバックに溜まっていかなければならないのに膀胱に溜まるだけで身体から排出されないのです。その時は、夜勤に交代していて看護婦のKさんが下っ腹を押さえながらカテーテルから吸引してくれていました。夜が明けるまで何度か吸引してもらったように記憶しています。その後は、カテーテルを抜くまで吸引してもらったりしなくても、カテーテルから普通に排出していました。いったい何が原因だったんでしょうか?
翌日、朝から部屋当番の看護婦さんから、昨日摘出したヘルニアをシャーレに入れて見せてもらいました。「如何する?」と看護婦が聞くので尋ねると、中にはホルマリン漬けにして持ち帰る人もいると言う事で、如何する?となったのですが私は処分してもらいました。
この時の私は、その後自分の身体が如何なるのか考える事なく、ひたすら術後のキズの痛みに耐えていました。