ababa ...ひびのおたけび

CRPS・脊髄損傷…
病は体の自由を奪い痛みで蝕む
それでも私の心は自由で在り続ける
大空を羽撃く鳥の様に...

番外編

2004-08-31 20:00:00 | 日記
長~い、長~い心残りの話がやっと終わりました。
そこで、今日は心残りの番外編。
profileでも書いているように、わたくし〝あばば〟かなりの
バイク馬鹿なのです。
車椅子になって何が一番イヤかと言われれば、
迷うことなくバイクに乗れなくなった事。と答えますね。
免許の限定事項には、原動機付自転車はAT車で、
三輪・四輪又は側車付に限ると書いてあります。
しかし、普通自動二輪は更新する事が出来ませんでした。
でも、今、流行の大型スクーターはこの条件を
満たせるように思うのですが、如何でしょうか?
しかぁし、〝あばば〟はバイクはギアが在ってこそ
バイクなんじゃァという持論の持ち主なので、スクーターは所詮スクーター。
バイクなんかじゃないもん。
右手でクラッチきりたぁ~い、左足の親指付近で、ギアチェンジしたぁ~い。
とにもかくにも、ともかく、何が何でもギア付きのバイクに乗りたいんですぅ。
えーっと、ハレーダビッドソンから出ている、
トライクだったかなぁ?何だったかなぁ?
まぁ、そんな感じの名前のバイクもどきの車があるんです。
勿論、免許は普通車免許で、ヘルメット着用は義務付けられてないし、
普通車扱いなので高速の二人乗りもOKです。
これもバイクじゃないけど百歩譲って、これでも良いから乗ってみたいよ~ぉ。
残存機能をフル活用してギア付きバイクに乗れないかなぁ。
死ぬ前に一度で良いから、一日中バイクを乗り回したい
!!
車を運転していて、へたくそ女ライダーを見るとムショーに腹立ちます。
そんなへっぴり腰で乗るなぁ、かっちょ悪いぞーッ、
全然足、着かんのにでっかいバイク乗るなよーぉ、
そんな運転じゃ事故るぞーッ、てろてろ走るんなら端っこ行けーっ・・・・・と散々、囃し立ててバイクに乗りたい気持ちをぶつけています。
ちょっと、寂しいですけどね・・・
だって、こうでもしなきゃ気持ちが休まらないのですもの。
後、何年経てばバイクを見ても、冷静でいられるようになるのかしらん・・・

昨晩遅くに薬を飲む為、塩モヒを口に入れたものの、
水を飲みに行くのが億劫だったので暫く、そのまま入れっぱなしにした後、
薬を飲んで休みました。
すると朝、下の歯茎の裏側に不快感、鏡で口の中を覗くと、
不快感の部分がなんとビランしているではないですか
!!
さすがは、薬の王様『塩酸モルヒネ』恐るべし、
塩モヒ・パワー、侮るなかれ塩酸モルヒネ。
これからは、存分に気を付けたいと思います。

心残りⅧ

2004-08-30 20:00:00 | 日記

ズバリ、今日で終わる。かなぁ・・・
とにもかくにも、残すところ僅かとなったことは確かです。
それではお話しに・・・
部室に忍び入り、荷物の整理を始めました。
作業の手を休め、ふと部室の真ん中にドォンと置いてある
机に目を留めました。それは、見てはいけないモノでした。
4月頃、1年生の部員が机の端に部員全員の似顔絵を描いていました。
その中にある私の顔に、先の尖ったモノで滅茶苦茶に傷を付けられていました。
だいたい、誰がやったのか見当は付きました。
私の心は傷つきました、深く深く。何も手に付かなくなるくらい。
傷を深めたのは、理由がありました。
傷をつけた人間は、そんな事をされている事など知らない私に対して、
ひどい事をやっていながら、何もやっていないふりをして
何時もと変わらないように振舞っていたのです。
その事が私をもっと傷つけました。
ソフトの事を少しでも考えると辛く、如何したら良いのかわからず、
おかしくなってしまいそうなので、
ソフトに関する物を全て箱にしまい押入れに入れました。
グローブ・ボール・スパイク・アンダーシャツ
スライディングパンツ・ルールブック・・・
部活に寄付しようと思ったルールブックですが、
傷つけられた似顔絵を見た瞬間にその思いは消えました。

辞めて待っていたのは、もっとヒドイ仕打ちでした。
一緒に辞めた人たちを私が無理やり引っ張って辞めさせた事にしたのです。
私は、人は人自分は自分と思って生きているので、
人を巻き添えにして辞める事なんて絶対しません。
私は、ソフト部の敵になってしまいました。
人一倍、怪我をしても頑張っていた私は何だったのだろうと、
バカらしくなりました。
そういう気持ち以外に、こんな人たちと
チームプレーはしたくない・出来ないと思う気持ちも生まれていました。
しかし、定期テストにも何に関してもやる気は起こらず、
残された高校生活をどのようにして過ごしたら良いのか解らなくなりました。

顧問は数学の担当でした。
顧問の顔など見たくもない、声も聞きたくない、
同じ空間に居るのすらイヤ・・・
授業も苦にしかならず、教科書もノートも出さずの姿勢を通しました。
一応、赤点の計算をして前半にかなり貯金をしていたので、
後半の定期テストが0点でも補習なしで進級出来ると確信していました。
一番、気になった事は担任なったら如何しようと、
かなり真剣に考え退学も頭に浮かびました。
私は普通科で、その普通科は二クラスあり、
二年の進級時にクラス替えをして、三年はクラス替えがありませんでした。
二年の時の担任は音楽を受け持っており、
三年になると音楽がなくなるので担任を持ち上がる事が出来なかったので、
もしソフト部の顧問が担任になったとしたらと、かなり悩みました。
幸運な事に担任にもならず、数学の担当にもならなかったので、
本当に良かったです。

そのような状態の中でも、一つだけ思いがありました。
県の高総体前に体育館で全校生徒による壮行会が開かれます。
選手はステージに乗る事になっています。
その時にソフト部の部員から見下ろされたくないと思ったのです。
私は普段は、負けずキライでもなく、
どっちかというと負けても勝ってもどっちでも良いじゃないと、
闘争心などほとんどないのですが、この事だけは譲れぬ思いとなりました。
辞めた当初は、経験のある剣道部に入ろうと思っていたのですが、
顧問が分けのわからない変人で
入れるのか如何なのかハッキリしないでいる時に、
バレー部の顧問から入って欲しいとスカウトされたので、
バレー部に入部しました。

それでも、高校を卒業するまではソフトを忘れる事は出来ませんでした。
ソフト部側も、三年に進級し一年の進入部員が入ってきても、
ずっと私を悪者扱いしているようでした。
そして、私がキャッチャーをしたら
ベスト4に入ることが出来ないから・・・と言っていた、
県の高総体の結果はベスト8どころか2回戦敗退で終わったようです。

高校卒業して数年は、ソフトを引きずっていました。
大好きなのに辞めたから、中途半端で不完全燃焼、
辞めていなかったら否あんな人たちとはチームプレーは出来ない・・・
葛藤の繰り返し。
今現在は、ソフトが出来る身体でもなくなったし、
陸上の投擲で北京のパラリンピックを目指すという
新たなバカになって打ち込めるモノに出会え、
ソフトは過去にやっていたスポーツのなかの一つ。
そう思えるようになりました。
四年前のオリンピックはちょうど大学病院に入院中で、
同じ部屋の人のテレビを盗み見している状態でしたが、
今のような気持ちにはまだ為れてはいませんでした。
この四年間、私も私の周りも随分変化しました。
良い変化か悪い変化か今は結論を急ぎませんが、
十年後振り返った時に良い時間を過ごせたと思える人生を歩みたいですね。

長々と七回に亘り書いてしまいまして、
申し訳ございませんでした。
部活=ソフトは高校時代の全て、ソフトなしでは
高校時代を語る事は出来ない。と言っても過言ではありません。
これからの人生、あんなバカになる程打ち込める何か。
その何かを見つけることが出来るのだろうか・・・


心残りⅦ

2004-08-29 20:00:00 | 日記

心残り、後一,二回で最終回を迎えることが出来ると思います。
いやぁ~、本当に長くなって申し訳ございません。

顧問に手紙を出した後私は、無期限の休部をとりました。
私と一緒に、教室に残っていた二人も同じように。
しかし、時が経つにつれて可笑しなことになってきました。
一緒に休部をとった二人のうち一人(Aさん)は、同じクラスでした。

以前にも書いたように、私が行っていた高校は
体育館が校舎から離れていたので、
体育の授業は二時間続けてありました。
体育館を二面に分けて使うので、体育の授業は二クラスで行なっていました。
二年の時、体育の授業が一緒だったのは、一年生の商業科で、
そのクラスにはソフト部が三人いました。
ですから、顔を合わせないという事はなく、
顔を会わせる度に挨拶を交わしていました。
それが変わったのは、休部から暫く経った頃でした。
体育館にAさんと他何人かで一緒に行っていたら、
一年生の三人がやって来て、私が居ると分かっていながら
「A先輩、おはようございます」と言うのです。
態々、A先輩と固有名詞を付けて。
それからは、ずっと同じ事の繰り返しで、
ソフト部の部員とすれ違うのが辛かったです。

本来ならば部活でもし何か起きたならば、
キャプテンが間に入って話を聞くべきではないでしょうか。
私は、一年の時まだキャプテンが決まっていない時、
顧問が練習に来ないようになって部員も練習をサボるようになった時、
皆を集めて話し合いをしてクラブをまとめたりと一人でやってきました。
キャプテンはそういう事をする為にいるのではないのでしょうか。
それなのに、キャプテンになっている人は、
私に話を聞きに来ないどころか一年生と同様に避けるように
挨拶もする事がなくなりました。
休部して一ヶ月程でこのような立場になり、
もう同じチームに居る事は出来ないと心から思うようになりました。
中にはまだ挨拶する人もいましたが、部活を辞めると決心しました。

それでも、好きなソフトボールを辞める事は辛く、
直接顧問にユニホームを返すことがどうしても出来なく、
こっそり部室に入ってユニホームと退部届けを置いてくる事に決めました。

私が、退部を決断した時、他三人も一緒に辞める決断をしました。
夜、部活が終わった頃を見計らい部室の扉を抉じ開け、進入しました。
その時は、自分で購入したソフトボールの入門書やルールブックを
部へ置いていこうと思っていたので、
ユニホームと一緒に持ってきていました。

しかし、そこで見てしまったのです。
それを見た十六歳の私は、傷つきました。
何にもかも手が着かなくなるほどに・・・


痛いということ・・・

2004-08-28 20:00:00 | 日記

神経因性の難治性疼痛患者である、私〝あばば〟は
日々、絶え間なく365日休むことのない痛みと共に生きています。
食事中、テレビを観ている時、本を読んでいる時、車を運転中、
何をしていても痛みは途切れることはありません。
もちろん夜、眠っている時も・・・。
この痛みは、どのような薬を飲んでも、いくらブロック注射をしても、
そしてモルヒネを飲んでも治まる事はありません。
この痛みと共存しなければならなくなって、早4年が過ぎました。
今のところ、確立した治療法も薬もないのが現状です。
また、何時になれば確立された治療が解明されるのか、今のところ不明です。
なので、この痛みから解放される可能性は今、ありません。

しかし、私は、何時まで続くか解らぬ痛みで苦しもうとも声にだして
『痛い』と言いません。
声に出せば、自分の「痛い」が耳に入るからです。
「痛い」その言葉は、勇気付ける言葉ではなく、
どちらかと言うと負の要素を持った言葉です。
これ以上、自分自身を底へと追い遣りたくないからです。
時には、何時も気を張っていることに疲れることもありますが、
それも自分自身で立ち直るしかありません。
唯一の家族である母にも、私自身の弱った姿は見せません。
Historyにも書いた事がありますが、7,8年前に一度、実家に居る時、
バイト中にギックリ腰(腰痛発作)を起こしました。
バイトを切り上げ帰る事にしたのですが、
バイクで帰ることも出来ずバスに乗り帰りました。
如何にかやっとの思いで家に辿り着いたのですが、
自分の身体をどうすることも出来ない状態でした。
その様子を見ている母は、オロオロし、
私に何もしてやる事の出来ない自分を、持て余し辛そうでした。
それを見ている私も辛く、今後一切母の前で痛い素振りを見せまい。
と誓いました。
それを守る為、ヘルニアの手術の時には、
術後の痛みを見せたくなかったので、
まだ麻酔の切れないうちに帰ってもらいました。

私は、人の痛み苦しむ姿を見ているだけならば、
自分が痛い方がマシだと思うし、自分の痛がる姿を見せて、
心配させ辛い思いをさせたくもないと思っています。
こう思うのは、奇麗事かもしれませんが
私はこういう生き方しか出来ません。

どう痛みと付き合うか、どう生きていくか、
これが正しいと言える答えはないと思います。
十人いれば十通りの痛みとの付き合い方があります。
私は、痛いから出来ないという事を作りたくはありません。
好きなことは、やり通したい。痛みなんかに負けずに。
同じ痛みでも、痛いイタイと言って好きな事も何もせず、
じっとベッドで過ごす一生よりも、
痛くても出来る範囲で自分の好きなことをして暮したい。
痛みに負けたくないのです。


心残りⅥ

2004-08-27 20:00:00 | 日記

心残り、連載6話目にしてちょっと終わりが見えてきました。
後、少しで終わるつもりですので、もう暫くお付き合い下さい。

新人戦も高総体と同じく、ベスト8で終わりましたが、
確実に力を付けてきているという実感がありました。
私の足は無理がたたり、日常生活にも支障が出ていました。
秋の体育祭も足の故障で競技には出ませんでした。
しかし、競技には出ないのにソフトの試合には出るのか!!
教師の話題には上がったそうですが・・・

新人戦が終わり、公式試合は春の春季戦までないので、
私はこれを機会に少し身体を休めようと思っていました。

高校は、正課クラブが金曜の6時間目にあり、
運動部の1年と2年は強制的に自分の所属する部活動の
クラブに入らなければなりませんでした。
ですが、一応5時間目の終了後、掃除をし一旦授業を終えた形をとるため、
クラブに出席せず帰る人も結構いました。
それは、中間テストが終わった金曜日でした。
クラブの時間になったのですが、
同じ部活の友人3人で部活に出ず帰ろうかと話している時でした。
顧問がわざわざ、山のてっぺんにあるグラウンドから下りて
教室まで来たのです。
最初、おまえたち何をしているみたいな事を言われました。
そして私に「前みたいにやる気もないみたいだし、
人数合わせの為に来ているのならば、辞めてもいい」と言われました。
私は、今まで人数合わせと思って部活に行った事はありませんでした。
ソフトが好きだから、イヤな事があっても一度だって不平不満言わず
頑張ってきたのに、誰のせいで部活がイヤになったのだと思っているのか。
その他いろいろ、我慢してきた事が一気に切れて涙が出そうになりました。

私は、顧問の人数合わせと言った一言で、部活を辞める決意をしました。
100%ではありませんでしたが、80%は辞める気持ちに傾いていました。
私は、とりあえず今の気持ちを顧問に手紙を書きました。
顧問は1月頃に彼女と別れて、
練習に1ヶ月顔を見せなかった事があるので、その事や。
1年の時は、彼女が居たので、どんなに私たちが
土曜日・日曜日に練習をしたいと言っても部活に顔を見せなかった事。
レギュラーと補欠の扱いの違い。
何が何でも勝つ事が良い事だとする考え。
今まで溜まっていた気持ちのすべてを手紙に書きました。
最後に8割辞める気持ちに傾いている事も書き、
今の中途半端な気持ちでソフトをする事は、
ソフトに対して申し訳ないから、怪我の療養も兼ねて
暫く休部させて欲しいと書きました。

そして、休部するのですが本当にツライ事態が待っていたのです。
今日はこの辺で、とっぺんぱらりのぷう(昔話風に)