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シロガネの草子

明治天皇の内親王方の唐衣裳



この唐衣裳は、明治天皇の内親王方がご婚儀の際にご着用されたものです。

竹田宮恒久王妃昌子内親王 称号は「常宮」
 明治天皇第六皇女でしたが、先に生まれた姉宮方が皆夭折した為、事実上の長女という立場でした。ご生母は、明治天皇の権典侍園祥子。以下の内親王方のご生母は、皆、園祥子です。

 明治21年(1888)9月30日に誕生され明治41年(1908)4月30日に、竹田宮恒久王とご結婚されました。この写真は、ご結婚の翌年明治42年(1909)10月に撮影されたとの事です。昭和15年(1940)3月8日に逝去されました。

北白川成久王妃房子内親王 称号は「周(かね)宮」
 明治天皇第七皇女として明治23年(1890)1月28日に誕生されそして、明治42年(1909)4月29日に北白川成久王とご結婚、昭和49年(1974)8月11日にご逝去されました。

朝香宮鳩彦(やすひこ)王妃允子内親王 称号は「富美宮」
 明治天皇第八皇女として明治24年(1891)8月7日にご誕生されまして、明治43年(1910)5月6日に朝香宮鳩彦王とご結婚、昭和8年(1933)11月3日にご逝去されました。

 すいません、朝香宮妃允子内親王のご婚儀の際の唐衣裳の写真は、シロガネの手元にある古い「女王自身」の皇室特集で掲載された允子内親王のお孫さんの持つアルバムの、この唐衣裳の写真しか、見つけられませんでした。他のご姉妹方と同じ唐衣裳と同様ですので。

東久邇宮稔彦王妃聡子内親王 称号は「泰宮」
 明治天皇第九皇女として明治29年(1896)5月11日にご誕生されました。妹宮がいましたが夭折した為、明治天皇の事実上の末のお子です。大正4年(1915)5月18日に東久邇稔彦王とご結婚、昭和53年(1978)3月5日にご逝去されました。


 写真で見ますと、明治天皇の4人の内親王方は、ご婚儀の時には、ご姉妹方同じ唐衣裳をお召しになられたが、分かります。皇室の財政が現在より遥かに豊かであった当時でも、お一人ずつ新調はなさらなかった事が分かります。

それでは明治天皇の内親王方がお召しになられた唐衣裳を紹介いたします。

▪唐衣
  表地 青色地の亀甲地文に紅のか紋上文の二倍織物
  裏地 黄色地の小菱文の綾織りの板引き

▪表着
  表地 紅色地に梅花散らし地文に白の梅の折枝上文の二倍織物
  裏地 紫の平絹

打衣
  表地 濃色の綾地綾
  裏地 濃色の平絹

▪五衣
  表地 白地に雲立涌文様の綾地綾
  裏地 紅色の平絹

▪単衣
  濃色の幸菱文様の綾織り

▪裳
  白地の三重襷地文の綾織りに桐・竹・鳳凰の摺り画

▪長袴
  表裏共に濃色の精好織り


 シロガネが参考にしている「宮廷衣装」によると「昭憲皇太后史」によれば昭憲皇太后のご入内の折の唐衣裳と内親王方のご婚儀の唐衣裳と、ほとんど同様との事ですが、シロガネが持つ「素晴らしい装束の世界」によると昭憲皇太后のご成婚時の装束の色目等は・・・・・


こちらの唐衣裳(明治神宮寺宝)とぴったり当たります。シロガネも以前、昭憲皇太后の十二単という題名で記事にしました。ただ、「宮廷衣装」では、五衣の地質は調査した衣装(唐衣裳)のながで古い分類に入り、また表着の梅花散らしの文様は江戸時代の女御が用いたものとの事で、現に・・・・・

 
こちらは、孝明天皇妃、英照皇太后がご着用された唐衣裳ですが、英照皇太后は、中宮(皇后)にはならず、女御から准后(皇后に准ずる地位)になられ、そのままの地位のままでしたので、梅花散らし地の表着です。

 では、どちらの唐衣裳がご入内の折に昭憲皇太后がお召しになられたかというと、どちらも正しいのではないかと、シロガネは思います。つまりご入内当日、二具の唐衣裳をお召しになられたのでは、ないかと。

 なぜなら、昭憲皇太后は、明治元年12月28日に女御としてご入内され、そして当日「皇后」の宣治を賜わり、皇后になられたからです。先の唐衣裳(明治神宮寺宝)は、赤色の唐衣に青色の表着ですが、青と赤は、古来から禁色とされ、唐衣と表着に赤・青の色を用いるのは、天皇の許しが必要とされたからです。

説明は少し長くなりますので記事を分けます。


 このお雛様は明治天皇が竹田宮妃となっていた常宮にお年玉として他の雛人形等と一緒に御下賜されたものデス。唐衣が少し似ておりますね。

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