今回の美術展レビューは東京都美術館で12月1日まで開催中の「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」です。
田中一村と言う日本画家を知る人は少ないかと思います。ただし、奄美大島で暮らす孤高の画家と言えば田中一村を思い出す美術ファンも多いのでは。田中一村は1908年に東京に生まれ、1977年に亡くなります。幼少期には神童と呼ばれ、東京美術学校(現東京藝大)に入学しますが、まもなく中退。千葉市に転居後は支援者に依頼品や青龍社や日展に出品しますが落選。中央画壇に失望し鹿児島でのスケッチ旅行を経験する中で50歳に奄美大島に移住。大島紬の工場や漁師などで生計を立てながら画家活動を続け、古希の70才を迎える前の69才にてこの世を去ります。
今回の展覧会は、神童ぶりを発揮する幼少期の南画作品や木彫家の父の手伝いを通じた木彫作品、東京美術学校を僅か2か月で父の病気で中退するも、田中米邨の雅号でパトロンも多く一家の生計を支えていた時代の作品は、当時人気を博した南画の手法で幼少期から20代の若さで見事な作品が並びます。
戦前戦後の作品は、南画を中心の墨彩画が多いのですが、狩野派の流れを持つ琳派風の作品も多く、鮮やかな芍薬や椿などの花鳥画は絢爛美を感じました。千葉での一村時代には、後に中央画壇への失望となる青龍社で出品の作品が並び、初入選作となる「白い花」や連作となる「秋晴」の落選による「波」の入選辞退は、会場芸術を唱える新しい日本画への期待と絶望の現れではないかと思います。
日展や院展に出品するも落選を重ね、皮肉にも東山魁夷や加藤栄三、橋本明治など東京美術学校の同期の活躍と反するように中央画壇から距離を置くも千葉時代の支援者の支えもあって、一村の作品を観ると衰えを知らない力強さを感じました。この時代に花鳥画には、後に続く奄美での斬新な画法の一端を感じました。
そして鹿児島でのスケッチの中で出会った蘇鉄により奄美の画家の誕生と繋がるのですが、南国の風土の中にある自然美は一村により世の中に浸透していったのではと感じます。画面いっぱいに描かれる奄美の木々は光に照らされて墨色に染まり、色とりどりの花や蝶と見事なコントラストで魅了します。
日本画の手法で描かれながらも西洋の趣さえも漂う作品はまさに一村でしか描けないものだと思います。古希を前に意欲的に作品を発表しようと気概は、図らずも自らの寿命で絶たれますが、終焉の地で育まれ、こうして、その名と作品が広く知れ渡りました。
今期、ベスト1の展覧会と誰もが口をそろえる田中一村の奄美の光と魂の絵画をぜひ鑑賞してみください。