男性は、女性では無い。
なので、何処まで行っても最終的には、何かのズレは出る。
「黄昏の狩人」これは、あくまでも最初、サークル内部の統制と言うか、結びつき、それを継続させる事を目的として考案した、のだが。或いは「好ましい」と考えた女性は、これを”世界に”適用しようとしてしまった、可能性はある。更にそれを持ち込んだ存在が、その王に成れば良い。野心は有った筈だ、それは自分の願いとも合致する。なら。
実際は盗品です?それはもう関係ない、やるかやらないかだ。
必然だろうか、「邪悪なる独裁者を倒せ!」と言う様な創作を創って来たその人は、やがて自身をリアルにターゲットにせざるを得なくなり…、結果、その女性も拒絶しつつ、消えて行った。
後にはただ、何かの喪失だけが残っている。
愚かだったのは誰か、今も何かの混沌の中だ。
これはたかが、アニメが売れるか売れないか?と言う話の中の、悲痛だ。
「黄昏の狩人」を描いた、本来の作者である自分でさえ、経緯と結果に理不尽は強く感じる。
売れれば良いんじゃないのか?
それは或いは、ゲームの「当たり判定」の如く、大いなる認識の溝としては有り続けている。
”それ”の為にせねばならない事として、あまりにも複雑怪奇しかも剣呑も含む、だ。
面倒さは、期待する自由に対して、大いなる脅威としてそこに有る。それを超えた先にこそ。
この流れの中で、「ゴースト・オブ・ツシマ」その作品もある。
「故戦城王」そこに”被せ”て有る作品だ。”この”市場、それを乗っ取らんとする…結論ではそう言う方法論のそれは、「タッチパネルが無い」結果、対戦内容に進化が無い、と言う不足と共に、微妙な否定感が付き纏ってはいる。
「被せ」の問題の一つとして、土台を超える事は許されない。
5%のロイヤリティ、その支払いが有るのか否か?には謎も有る。人類のほぼ誰にも嘘と見抜けない様な嘘を付く人、と言うのも、居るには居る訳で。結果はでも、物理的な問題としては発生する。しかしともかく、インターネットのエヴァンゲリオンも、平成を代表するメディアと化した…それは事実ではある。当たってないのに当たっている!と言い張ったのが「ゼビウス」で、それは逆も或いは有るのだ。
たかが、玩具か漫画が売れるか売れないか?その狭間の話だ。
その中で、数多の人々が死んでいき、或いは何かの重い後悔と悲痛を背負った。
何故こんな事に?
何時までも残ってはいる。