理解の問題として。
その人は、現在は?一人身だ。しかし農家として、一人で田を維持し畑を耕し、年商で500万円は稼いでいる。純益的にはそう高くないにしろ、生活は、そこそこ裕福でさえある。
…と言う”それ”を、空想?を、現場に求めるべきだろうか。
農家でなくても、”これ”がどれだけ無理のある話か?と言う、そう言う話ではある。そもそも「一人で」と言うのが、もう”ほぼ不可能”だ。それは「頑張れば何とかなる!」というレベルなのか?利益性にしろ、物量にしろ、500万円と言う額は、一束100円を”5万本”である。収穫作業だけでもそれは個人の労苦その許容範囲を超えている。そして本当の作業は、その後の梱包にこそ有るのだが。
その上で、炊事洗濯掃除等々、生活に必需な労苦もまた、そこには存在するのである。
”今”に成ると、「個人創作の利益」”それ”は、そう言う意味には、成る。状況は変化しつつ有って、最終的な「市場管理者」それが、”ここ”に戻って?来た…様な感覚は、少しある。何を許容し何を否定するか?現場に微妙に反映しつつある、”それ”はでも、やっぱりあの、「美鶴さんの長い妄想」そこへは、回帰してしまう。
しかし、真実としてこの作品は、当時本当に、「一人で全部創った」のだ、マップを描くツールまで含めて。出来のクオリティに関し、疑問その他はあるにせよ、ちゃんと組み上げる事に成功した…それは一つの達成ではあり。無視出来ない価値、そう言うのはここにあり、それはある程度の報奨、それを要求はする、のだけど。
今の把握だ、創作と第一次産業にはリンクがある。食事をする事で減っていく価値を、創作は補わねばならない、”それ”が第一の目的であり。その時、そこに見えているのは、現場の感覚ではある。その創作は”そこ”へ、それを要求するのだ。
そこまで追い込まなくてもいいのでは。
人間のキャパシティとして、可能性として、”余裕”は少しある。「やれば出来る!」それは、一つの真実としてそこに有るかもしれないしかし。市場管理者と言う立場で”それ”を認めると言う時、現場は何を考えるか、優秀である、それは間違いない?にしろ。
昭和かな?
市場管理者が”それ”を否定しても、無理のない話の様な。
今も、感覚的な許容は”この程度”ではある。ここからプラグイン等々の利用や追及、技術の習得やその労苦を考えたら、もう趣味とは言えない領域だ。MMDにしろ、コンセプトの問題としてか、創れた場合に「価値が上がり過ぎる」?感覚はある。原理的な必要性はそう言うモノではあり、恐らくは?メインで創ってる人々にしろ、完全な趣味、と言うのはほぼ居ないのでは。
「市場管理者」が、変わった、としても。
逆にそれだけに、独裁性?そう言う物だろうか、そこは重い疑念と共に有る。
良い変化か、悪い変化か。
自由と利益は、常に対立はしている。