状況の再認識はある。
ただ、リアリティは感じない。
「金本位制」は、養える人口の物理的な限界に達し、現在の資産のその多くはバブル化している、担保的価値と実際の数値が一致してない。”それ”を補う必要があり、洗脳でさえある強硬論で圧し切ろうとする、が、その前に有るのが”物理の壁”だ。100kgある!と言っても、そこに10gしかないなら、それは10gでしかない…それは必要な重さに成らないのだ、が。
それを前に、その、発覚その他を恐れた、それによる「過失」と共に、「金本位制」はその責任の多くを、既に他者に依存する状況に成ってる。
依存先、”雅”市場の導入?により、「人本位制」それが、その引き受け手に成っており?それは結論では、密かにか、世界規模での通貨単位にさえ成ってる、訳だ、「一人の同意で一円」であり。”それ”があらゆる通貨を支え得る物、という事に成る訳だが。その結果として、その作者は、特別扱い、多少のそれを許容されている。と言うか「している」。
作者は、ネットに公示した一文字に付き、10円を得る権利が有り、また、そのアイディア?は、通常の「ストリード」それとほぼ同じ意味を持つ。
ただこの結果、”作者”はシステムその物からは切り出されては居る、権利としての特別を失ってる訳だ。最終的な決定は「大賀さん」紛争解決機構、そこに依存し、作者のそれは、或いはその場において有力な一つの意見に過ぎない、そう言う状況。
”この”状況である事で、色々な物、過失、喪失したモノ、過ぎた時間、発生した悲痛、それらは比較的、安定した状況には有る。「現状、この”雅”市場と言うシステムが最上位で有り、その作者が森宮である」と言うそこは確定で、それに反する事は、先に出た悲痛、喪失、それらの責任をも負わねばならない、それは無理がある。
という、その「無理がある」が、今もまだ、微妙に周知徹底されていない、感じ。
「大賀さん」その決定には逆らえないのだ、と言う理解はもちろんと言うか、今も薄い。結果で発生する動乱と悲痛は、そこに理不尽を蓄積していくが…それでも、その理解は微妙に動かない。
ミャンマーの動乱、その結果は果たして。
「人間を動物扱いする奴の末路はこんなもんよ」という、それが”薫風と菫の動物園”ではある、のだが。ウマ娘とか、これは違うのか?と言うと、何だか微妙感はある。何かのテーマの様なモノ、だ。この牢獄から、どうやって脱出するか。今の所、その突破口は無い、自分も含んでだ、が。夢オチを否定する時、「もし自分がこの状況に陥ったら?」その仮定はしかし、重い絶望と共に、奈落を創る。
漫画だから。
相変わらず、些細かつ、面倒なテーマだ。