あげちうのブロマガ

聖人とされる道の帰結にある聖人の愚痴

それは定番の失望と、定番の徒労感ではある。

ともかく今できる事は、テレビゲームでハイスコア的な物を目指す事だ。

クリア出来ないんですけど。

と、言うつまり、現状の問題とは「これ」だ、という事ではある。クリアしていく人はしていくのだ、彼らはそれだけの投入と努力?かの結果によってその栄光にある。それを求めるのなら?同じくそれを目指さねばならない。出来ないと言うのは努力が足らないだけだ。

あの、今までの自分の面倒は。

その自分の声は、相変わらず画面に薄ら映る”何か”のそれとして消えては行く。


要するに、また、だ。
「自分のシステムが他のシステムと対立した結果、勝利した」のだが。
その結果として得られる物が、ちょっと、失望と言って良いモノでしかない、だけで。

ともかく「大衆は神である」その原理と原則と道理は、他のシステムに対して優位にある。世界は”それ”が今、最終的には支配さえしている。道理それは”ここ”に有るのだ、それが正義、それに逆らうと言う事は何人で有ろうと、何かの問題を抱える事になる。

心配事は無くなりました、もう大丈夫です、という事態に成りつつ、という事なんだろうけども。

それは、語り出しさえする。

後は各自、自身の目指すべき理想へ向けて努力せよ、求めるのはそれだけだ。
視点は様々だが、願う全ては具現化し得る、ただ必要な労苦その他は甚大だが。
一応、この世界は夢を見て良い世界だ、それに束縛は無い。願えればそれは叶う。
あらゆる事は、頑張れば何とかなる。理想と言う意味で、駄目と言うそれは無い。
やればやっただけの事はある、自分の未来は自分で切り開くのだ、それが出来る。

不意に気づくと、それは地雷原に単身突っ込むような理想論ではある。

既存は既存として有る、それはそれとして、昔話、そう言う物としては残る。昔が何故ダメになって行ったか?そう言う物も、実感の様なそれとして解る。当時は本当に、一部の人々にしか達成は出来なかった。今はそうでも無い。それはそれとして価値ある何かとして、残っては居る訳だが。

問題は、その結果として「古いクリア出来なかったゲームが、クリア出来る様になった」という訳でも無い事だ。それは問題なのか?ではある、しかし、それはそれで不満の様なモノとしては、残る。

…それは、自身の後ろにある、しかし自身とは少しずつ異なる意向、”その”声かもしれない訳だが。それだけの労苦を投入した先には、”望むモノ”があって良い筈だ。それは何処だ?に対して、自身の衝動というか執着の先は、結論では求める?物を置いていない。

”それ”は、相手次第ですので。

自由意思の侵害は犯罪です、それは出来ません。

金銭的な話、それは?前にも考えたが「全て貴方のモノなので、貴方がその道理と共に、自身に提供して下さい」それはつまり、自分の財布の中からご褒美は自分に与えろ、そう言う意味ではある。つまり、結果に伴う利益性、それは無い。

この時、一体貴方は、この甚大な労苦と時間を費やし何を得たのですか?に、返答は出来なくなってしまう。相変わらず、だ、評価的な問題は、何かの壁、”それ”が自分が創ったそれである事は解っているがその前で、止まっている。

”普通”に暮らしたいのでは?

結局?「世界を救った勇者は何を得たのか?」と言う、不意にある問題に返答が無い、訳だ。”本人”は納得する部分はある、全て自分が求めた結果でしかない、しかし。”それ”に何かの打開を見ていた人々その多くには何かの疑問は残る、それはやっぱりある。

ゼレンスキー大統領への感覚も、何だか、同情めいて来た変化も有って。

「美鶴さんの長い妄想」これは、面白いのか、或いは。

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