あげちうのブロマガ

社長と言う椅子の魅惑とその現実

結局、社長とは、或いは創作者で無ければ成らない、のかもしれない。

現場からの「どうすれば?」それへ、社長は返答するのが仕事に成る訳だが。


単刀直入に、「何を創れば良いんでしょう?」へ、返答するのが仕事であり。それに対しての「技術がありません」「人がいません」「コストが掛かりすぎます」等などにも、もちろん返答し、妥当なルートを示す、その必要はある。その為には、ある程度のビジョンは必要だ、「どういう作品を求めるか?」それは、或いはそのまま、自社の製品に現れていく。

結論で言えば、社長の作品が売れないのなら、その会社の製品も売れないのだ。

テレビ番組等に対して、社長はもっと、危機感を持たねばならない、のではあるまいか。


形態にもよるが、「プロ」それは基本、オーダー通りのモノしか創れない。”それ”は或いは宮崎駿監督であっても、だ。要求があって初めて、その先の絵がある。”それ”が無い限りは売り上げも出ず、酷いと干される、という事も有り得る。”それ”に対して何を求めるか?は、スポンサー側の役目?ではあり、その時、社長そのビジョン、そう言うのは色濃く、出る。

という理屈で言えば、今は社長側の「要求」に、多く問題がある、訳だ。現場のプロに対して明確なビジョン、必要性?それを要求出来てない訳だ。そして、”それ”に寄る責任が社長に集中する先で、何かの破綻もそこに起こる、訳だ。


現在、「責任者」が、一般論で多く無能的なそれは、何に理由が有る物か、ではある。


流石に「座っていればいい」とは、言えない状況ではある。とは言え確かに、創作性の無い社長なら、今までの理屈で言えば犬の方が役に立つ、かもしれない、犬の写真ならある程度の利益性は期待出来売るからだ…猫のそれの方が今は良いか。人間のそれでは、ちょっと微妙には成る。もちろんヘタな絵なんか見せられても、苦笑するだけだが。

…しかし、「責任者」を廻り番にしてる現状は、結構重くあって。責任者にビジョンを要求する、その是非は、重くある。出来ないかそんな意識の無い存在に”それ”を要求し、非難ごうごうと言う時、それは誰に責任があるのか、その人も別に、そこに座りたくて座っていないのだ、としたら。

何処に向けたらいいか解らない憤慨、それは渦巻いている、と言うのは少しある。

「大衆は神である」それは、本当に定理化したのだろうか?反論が無くなった、と言っても、「不満」それは言語化しないモノを抱えてそこにあったりもする訳で。「神が求める物を創れば売れる筈だ」その先にある現状とは、果たしてではある。

”それ”を創れない人は、要らない人ですか?

「無能か?」を言われたくない人々は、それを言わずに黙っているだけかもしれないが。そんな”彼ら”が社長に成っている?のは、何故なのか?ではある。

そして、他の人々は何故、社長をしてないのか。

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