自分は理解していても、他人が同意しないそれは、事態をより悪化させたりする、場合さえある。
とは言え、今の状況で「説明」それがどれだけ意味を持つか?は、結構深刻な話もある。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力、翻訳して出力
夢を信じて踊っていた人が、ふいに居なくなった後、何かは。
ともかく、”ここ”の理解では、太陽は永久機関である。詳しくは「太陽というエンジン」で少し詳細に書いたがしかし。そこに描かれている事を理解?する上では、「宇宙は±0で出来ている」「プラスが有れば総じてマイナスがある」その理解も同時にか必要となる、そして。最大の問題はこれは「神とは何?」まで繋がる話で、そこで物理が神という理解というか納得、それを必要とする事ではある。この時点で既に、大分人は居なくなっている、気はする。
同意を取りたい部分は単純だ、「エネルギーの供給その物は尽きない」ただ、労働し続ける必要はある、という事ではある。”この”同意を得る為に神とは?の説明から始まる話を、誰か理解せねば成らないだろうか?は、まあちょっと深刻な疑問だ。
「足りないなら創ればいいんだけど、それには相応の手続きとか労苦は不可欠だ」が。ともかく目先の感情論は瘴気となって、色々なモノを妨害してくる怪物、ではあるのだった。
正直全然理想的なそれじゃなかった、という後悔の様な物はある、「大衆」という神のそれではある。
ともかく現状の結果論で言っても、「平等性が崩れてる」最終的には切り捨てがある、環境に利益それは発生してない、結果は深刻に受け止めたい、のだが。”この”理解で言えば「神の意向に反している」状態な訳だ、しかし。人間の自由意思には本人が望まない限りは不可侵、という前提を前にすると、理解は物理を超えて、自身の正義それを真実として正義の名の元に切り捨てを作ったりする現実はある。
”神”の視点で見れば、それは「四谷怪談」で最後に切り殺される寝取り妻、の様ではあり。男の方は正義のつもりだが、結局、右か左かで片方を切り捨てた先に有るのは、そんな様だったりする訳だ。発狂したまま、男は何処に行ったかは…解らない。
どっちにしろ、第三者視点では「なんでそんな男に」だが。ミクロで見ればそれは、正義を貫こうとする勇者の姿に見えるのだ、ろうか。ともかく道理かの絵として、人間の愚かさとしてこれは、実際には妥当な推移でしかない、のかも。
自分が今、この話の”何処”に居るのか?は、ちょっと深刻になる部分はある。就職氷河期世代それは、虐められ棄てられた元妻、のそれだろうか。”それ”が何かの恨み節を語る毎に、それを棄てた世代か何かは、歪んで狂って行くのだ。そして世界が滅ぶまで、そのいざこざに関わる奴は、居ない。
「ってなったら困るだろう」が、基本的には漫画か、ともかくサブカルチャー的な物語?その役目ではあるのだが。
自身は自身で、或いは能力的な限界、もしくは思想的な面倒だ、「これは漫画だ」その範囲を超える事が出来ない。創作としての価値、それを語り出すなら相手の自由意思、それを侵害しては成らない。説教を漫画の中で書くのは、本来は御法度である。漫画で無ければ良いのか?と言っても。何はともあれ説教というのはウザいモノではあって。聞かれない限りは応えない、その方が色々と利益は有るのだが。
結果、最終的には傍観者にしか成れない、それが今の、作家の限界だ…その理解は果たしてではある。
ともかく今、深刻かそれとも明確化か、「日本は敗けた」その、理解に意識を置いた方が安定は、ある。状況は何故こんなに悪いのか?戦争に負けているから、だ。それを認めない限りは、状況は悪化し続ける。石川県の惨劇は、何か目を覆いたくなるそれだがそれも。実際には戦火の帰結でしか無かった、という事はあるだろうか。因果か風土的か、ともかく戦争を継続し得る深刻な意識、執着、そう言うのが石川県にはあったのか、そして。その敗北の結果が、もしくは。
釈迦は、犍陀多が蜘蛛の糸を切る事を見越していたか、否か。