正義は勝つ、時。「民主主義」は、「民尊主義」を超えられない。
ただ民尊主義は、それがそうである限り、民主主義を否定する事は出来ない。
本日のダイス
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白9 5435
「独裁者は要らない」から、だ。頭でっかちになる時、そこにあるのは”神”を無視するシンプルな暴走である。
現状の問題、そのほとんどが「多数決」民主主義、それからくるものではあるのだが。だからと言って民主主義を破壊する、否定する、という事が出来ない、そんな事態は有る、そこにある是非ではあって。「大衆は神である」場合にしろ、多数はその”大衆”の大部分を占める。それを無視しても、この理解は成り立たない訳だが。
結果、最終的な「悪」それは、何処かそこか残ってる事には、成る。
現状、その「悪」の許容が難しい、そんな暴走か衝動かは、少し自覚し得る夢魔だ。
大元の問題は、イメージでは金本位制からくる「切り捨て容認論」ではある。金は増えないのに人は増える時、自然と貧者は発生してしまう、最終的には養いきれずに捨てられる。この時、切り捨てられる側に発生する「理不尽だ」何の問題も無いのにこの仕打ちは許されない!というのが”悪”その許容に成ってしまう事で。具体的には売春婦の肯定や、そしてそれに対する仕打ち、それが社会へ無形の復讐として、様々な厄災や病魔を呼んでくる訳だが。
故に原理的にはまず、金本位制を改善しなければ成らなかった、しかしそれを民主主義は容易には選択しなかった、訳で。
これが果たして、「悪」が逃げようとしている屁理屈でしかないのか、それとも真実か、だ。表面的な憤りは、切り捨てを処理する人々に集中するが、そこには「社会から要求されてやっているんだ」養豚業者みたいなものだ、そんな物言いが有り、それを否定し難い。汚れ役を買って出ているに過ぎない、自身らも切り捨てられ、他に仕事が無かったからだ。女性を騙し経済的に追い込み破綻させ、AVとして輪姦し、その後自殺させても、金本位制が続く限り、”それ”は何処かに出る。
その理解と、しかしそこにある実際の加害者と、そして残って居る過失への追及、それはまだ混乱の中にはある。
ともかく今?金本位制は”改善”され、AV新法は出来、アダルトビデオ、その製造はほぼ無理になった。現場の”彼ら”はその職を失った、訳だ。女性らは別の職かを探せばいい、彼女らの多くに過失は無い。ただその中には、ほぼ強姦された人もいて、その損害の記憶は、不意にそこに対価、賠償を要求はしている、のかも。
その時、そこに携わった男性の多くは、社会から捨てられる事には、成る。
幸いと言うべきか、ほぼ多くの彼らは単に命令で、という形らしい。責任は一か所に集中し、そこに過失を問う事は出来る状況はどうもある。賠償を請求され、権力をはく奪される。その時”それ”はもう、二度とそう言う事は出来ない?
そうだろうか。
ともかく「殺せない」のだ、最終的にはそこに過失がない、病気の様な話でしかない。故にか薄っすらとした悪夢は、まだどうしても残ってはいる。原理は民主主義の多数決採決、その悪魔というべきだろうか。問題を量産した”それ”は今も、否定できずにそこで、何かの笑みを浮かべている訳だ。そして問題を起こした意識はその意識のまま、新たなる可能性とその犠牲者を探している。
神の抑止か、或いは自身の不足か、まだ判断できない。