あげちうのブロマガ

神を目指す衝動は敗北の後にこそ

「大衆は神である」と言う感覚の先で、人はその一部に過ぎない。

「人は神に成れない」と共に、人が神にならんとすれば、そこにあるのは”死”しかない。


本日のダイス
白:5,1:6
黒:6,6+1,3:16!

黒16 661351


とは言っても、「失敗する」失念するそういう時、”その先”はどうしても、願う道としては常に。

「自由意思の集合としての、等価なパワー同士の選択」と言うそこにこそ、「大衆」神の意向、”それ”が現れる訳だが、”それ”は見える”それ”として「有る」訳で。少し高台に昇って街を見下ろせば”そこ”に神は見える。存在しない曖昧な”神”よりは良い、民主主義の理想も結局は”ここ”にある、とは思う、のだが。それでも「つまり、全てをねじ伏せれば」みたいな、それは衝動として残る、自身が失敗の様な物を感じる時、そこにはその先が常にあるようにか。

「ガンダム」もそういえば、”そんな感覚”を未だに宿している、様な事を考えては居た。

漫画に描いた事が具現化する、のが最終的な理想ではある。戦争を前に、状況の予測が”そのまま”具現化する事を期待する様に、或いは設計図通りに作って、それがその通りの結果になるそんな、「完璧」をどうしても求める感覚は、重い。アーティストの最終的な理想もそこかも知れない。とは言え、”究極の力”を手にして状況を変えたい、それは悪か?という問いに対して、返答し得る人間は或いは居ない。

衝動が理屈をねじ伏せてしまう、そんな状況は続いては居る。

結論で言えば「”無理”はしなくていい」のだが。その辺も理屈じゃない感じはする。出来る事を出来る範囲でやる、時。どうしても不足は出る、それがどういう形で現れるか?ともかく、「完璧」に作ったそれは壊れたのに、その残骸は今でもそこに残って居るのだ、”神”の試練を通って残った物、それがそこに、或いは「最良」として有る。

壊れてるんですけど。

人間の視点では”それ”はそういう物でも、神の視点では…違うのかもしれない。

「問題が起きない様に」やる事が、逆に問題を起こす事も多々ある。ともかく「最後は”神”の神判の結果だ」として、起こる事はその都度、そういう物だと思って何かの諦めをしていくしかない感じ。常にへりくだる必要もないが、過失は過失として、納得していくしかない。

何処かで、神にならんとしていたのかもしれない?

そこに現れた結果は、そう言う結果として、どうにもならない失点ではある。

 

またなんか失敗したん?

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