あげちうのブロマガ

厄という生成物の行方

現状でも、昭和の頃のコンテンツは相変わらず、何かの意味か価値を持ち続けては居る。

「王の権威」それが残した創作には、例え王の権威が居なくなっても意味はあり続ける訳で。

 

という訳で、そう言う理解の先では「大賀さん」「ストリードの連携」「”雅”市場」そう言うのは、やっぱりそういう物として機能してる、筈ではあるのだ。その時構築した理屈、主に「お金とは何か?」それも含んで、今もそれは安定した何か、それとしては残る。

ただそれだけに、「お金がありません」「働きましょう」それへの抵抗感?もまた、やっぱり残ってる。

今の理解では、「存在する」状態を創る為には、表裏の同意、それが必要になる。その最たる事例が「子供を創る」と言うそれではあり、それは男女の間からしか発生しない、それは今の、人間の環境としては定理だ。物理的な、自然発生的なシステムとしては、太陽が地球上には存在しない様にかなりの制約か限定条件になる、が。理屈の中では、「表裏の世界」それは、「鏡に映ってる光景」それを”有る”と認識すれば、そこに表裏は有る、無限の異世界の中には、表裏を形成してる世界が無い、とも言えないのだ。

なら「発生する」それ自身は、単に自己と向き合うだけでも発生はする、事には成る。
その理屈の上では?同調がうまく行けば、人間さえ「発生させる」事は可能だ、とも言える訳だが。

要するに?「単に絵を描いた」駄文を書いた、そう言う”ゴミと大差ない創作”でも、「発生してる」事には変わりがない、訳だ。”それ”を考えるとしかし、面倒も多い。世界の平和を願う祈りも、或いは誰かの死を願う呪詛も、人間がそのつもりに成れば幾らでも発生してしまう物ではある訳で、それをそのまま野放しにしていては、人間の(主にこの段階では)精神に色濃く混沌を創る事には成る。そういうのが人間の行動への歪み、それには成っていく訳で。

結局そんな「厄」をどう処理するか?が、今の時代にこそ重要な話にはなる訳だが。

主な「厄」人間が生きてるだけで発生させる「存在の不確定な生成物」は、大概はその他と対消滅して消えていく、様な部分は有る訳だが。ただやっぱり、”それ”は多く、衝突の様なニュアンスにはなる、願いと願いの衝突は、そこにストレスを産んで実際の対立に成って言ったりする訳で。だから、それを専用にか処理する物、そう言うのが「欲しい」と言う、そこに衝動は集中していく部分が出てくる。

大概「売れる創作」そう言うのは、それが出来る事が前提、ではある。

「萌えキャラ」なんかは、解りやすい”条件”だ。性欲処理が可能な、しかし誰かを害する訳ではない物、そう言うのは無いのか?集中する「願い」は、やがて「萌えキャラ」と言う造形を産んでいく訳で。この結果、この創作物には「価値」が視認できるくらいに発生してる事にはなる。もしこれに発生してる「価値」をネット動画の様にカウンタ数値でのお金に換算出来たら、果たしてどれだけのお金がそこに有るのだろう?そしてそれは「発生した」物であって、何処かから盗んできた訳じゃないのだ?

「お金が無い」なんて状態は、この理解の先ではありえない、のだが。

何を”創れ”ばそこに「価値」が有って、お金に換金してもらえるだろう?その時、経済が悪化している、その原理みたいなものも見えない事は、無い。少なくとも?世間のそれらは「欲しいモノ」ではない、のだ。換金に応じる気に成らない。良くも悪くも、この価値は「換金」という手間を経由しないと実際のお金には成らない、という原理はあって。その時、その物差しを持っているのは、お金を持っている側、ではある。

この原理を超える方法は有るか?費用対効果の問題も含んで、今も執着が残ってはいる。

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