「仮面ライダー」の実際の”理由”は、まったく「王の権威」それではある訳だ、が。
それだけに、その作品内での問題と同じそれを、やっぱり抱えて、それが個性だ、という感覚もある。
説明を要求されていても、返答に意味がない、感じはある。極論というか、理解の方向が「つまり自分が神だと言いたいのか?」に落ちちゃう訳で、そして、それの方が今の思想としても、正しい。人間の自由意思を侵害するそれは、悪だ。犯罪を犯すつもりがないのなら?何も言わない、というのが或いは正しい。
そしてそれは、相手が或いは奈落へ落ちていく様を、何もせずに見ているだけ、という事でもある。
「六神合体ゴットマーズ」アニメ版のそれは、いちいちロボを呼び出す為に崖から飛び降りる。当時から言われていた話だ、「もしロボ来なかったらどうすんの?」しかし最近か、”それ”が仮面ライダーの問題の一つだ、という気もして、少し深刻な気分には成る。描写の一面として「命の危機を訴える時、それはやってくる」訳だが、逆に言えばこの主人公は、”それ”を「利用」しているのだ。
「神が動いてしまう」訳で。
”依存される”最後に、「それは無理だ」があり、その先に、破綻はもちろん、ある。
「大衆は神である」その思想?にしろ、ともかく唯一神、ではあって。今は「大賀さん」そう帰結させたそれは、でも結局は「賽の目に従う」そういう話にしかならない。もちろん崖を前にしてそれを崖だと理解するなら飛び降りる、なんて論外である。昔は通った”それ”は、今はもう自己責任として、愚者が投身自殺した、という結果にしかならない、訳だが。
と、ある意味で解った上で、”その”訴えを無視するべきか?という話も実際には。
現状、幸いというべきか、自分には何の権限もない、むしろ自分が自分に日々「何とかしろ」と要求してるような状態でさえある訳で、第三者的にも何もできなくても納得もありそうだ、が。逆に言えばその時、「ここは違う」という、その理解もある訳だし?つまり「より上位は何処だ?」この苦境を打開してくれる存在は誰だ?そういう、カルトへの渇望、そんな話にも成っちゃう、のかも。
今の自分にとっては、面白い話のネタかもしれないが、”それ”は現実の一面である。
”それ”を「漫画だよ」と、不意に認識できなくなる時、人の感覚それは果たして。
作家を目指す、のなら。「面白い」の直前で止まる、方が良い、気はするが。その時、その人のしている事は理想とは、ずいぶん違う様かもしれない。
少し、「アルカディア」用のゲームネタを創案。
「メイズオブカラー」
貴方は悪い魔導士の策略で、見知らぬ迷宮の中に放り込まれた。何とか脱出せねばならない。
固定画面、いわゆるゼルダ型。迷宮の中を、上下左右で進む。迷宮のあちこちに落ちている「色石」に触れると、マップはその色に変わるが、同時に地形も”一部”変わり、「敵」の配置も変わる。主人公は3色の魔法を使う事が出来るが、現在の迷宮と同じ色の魔法は使えない。その上で、その魔法を駆使して迷宮を突破しろ。
不意に、返答はある。
「”そう”とは限らないでしょう?違う場合はどうするの」
そしてその疑問はその先の”真実”を探して、迷宮から出られなくなる、訳だが。感覚、「自分がどんな状況で窮乏してて、その打開は?を考えれば、自然と」その先の絵と、衝突。嘘だと言われればそう、私は貴方ではない。ともかく、「状況には必ず何かの打開はあるものだ」それに対して、不意に相手の反論に否定し難い。
そんなもの、何処にあるんです?
統一教会の文鮮明氏も、或いは陥った奈落の中だ。自分に見えている扉は今も疑問だ。
それは幻か、或いは。