それは、意識の問題だろうか。
「お金が無い」不意に、かなりか、深刻な話に成ってきては居る?
構造はある。
ただ、それは”ここ”の、思想の産物、だ。
その思想の制御下に入ってない、同意してないのなら、それは意味の無い話ではある。
「面白い」ともかく他者が購入意欲を感じる「創作」を創る人がいて。
”それ”を購入する為には「お金」が必要で、その人は「労働」象徴的なそれとして「人力発電所」そこで労働力を提供し、対価を得て。
その対価で、その「面白い」モノを購入する事で、創作者は「お金」を得られる。
この時、創作は「お金」として”発生”した事に成る訳で。
その人物が生活の為にお金を「使う」事で、世間にはお金が増えていく事に。
この図の、「人力発電所」それは、”働く”全ての場の集約でもある、人々に、或いは世間に必要なモノを生成する事で、対価を得る。ただこの時、労働者は同時にお客でもあって、結局両者の間をお金は行き来するだけ、に成ってしまう結果、”それだけ”では増えない。また食事、経年劣化などの自然減は、総体としてのお金の量を減らしていく、物理的な現実もあり、それを「創作」は、補正し続ける必要がある。
今社会に「お金が無い」それは、社会へ十分な「創作」価値有る物、それを提供出来てない、からだ。
その理解の先で、「犯罪を犯して執行猶予中の罪人が、作家をしようっていうそこに、無理は感じないんですか?」という、感覚の対立があって。結果的に今の政治は、それで何とかしようとしている、現実はどうも、ある。”この場の”思想その他に意味がある、としたら。世界は、政治は、権力は、「都合が悪い」これを10年以上は隠蔽し、自身らの主張を優先してきた事になる。「打開は出来た」それをしなかった、事に対する過失と損害の大きさは、「政治」と言うそれその物を既に罪人にしてしまっている、という事かもしれない。
”そこ”に居る人々が、総じて等価な罪人なら、そこに罪人が混ざっていても、何ら問題のある光景じゃない訳だが。世間も或いは、解っていても、”それ”に責任を預けていると言う現実はある、その際の責任は何処に行くのか?だ。面白い創作を創らないのは、結論では「権力が作らさないから」だ、それが社会を如何に疲弊させていこうと、その否定は自身らの立場、その否定に繋がるなら選択できない。
これもまた、思想の問題だ。「なら、クーデターも起こしますか?」それを、まあ信仰する神は許さないし?事態を打開し得る物、”それ”を提供する事もしない。今まで書いて来た物語、”それ”に寄る、という部分もある、逃げても良い事は無い。結局?世界のどこにも逃げる事は出来ないのだ。彼らが問題なら?今は逃げれても、いつかどこかで同じ問題は、より深刻に破滅的に現れる。その上で、対処は?だ。神の思惑と言うのは最後まで解らない物だが、単に馬鹿だから殺す、と言うのは流石にナンセンスではある。
その筈だが。
ともかく、「支持」と言うのは果たして、動画のカウンタ数値みたいな物か?だ。
”それ”を失って行く、という事は、何を意味するのか?ではある。
その上で、自身がすべき事は何か。
状況は相変わらず、混沌としている。