色々と、変化はしていくが。
それは全て、形而上の話、そんな感じではある。
SEGAと言う会社は、創業家一族が理念を持ちつつもそれが理由で特権階級に成った事で、何かの淀みを産んでしまった。
結果で、創業家は業績悪化の責任を取り、会社を辞める事に成り、そして経営者が変わり、その経営方針に同意出来ない人々には、辞めて貰う事に成った。
辞める人々それは、以前に有った「追い出し部屋」そこに居た連中だ。利益を上げない彼らは、そこに移動に成り、ぼーっと麻雀やら将棋やらをし続けていた、訳だが。それを、その一族の理念は切る事が出来なかった。結果、会社の業績は悪化し、その責任を問われて一族が会社の外に追い出される結果、逆に、その追い出し部屋に居る人々を、無理して雇い続ける必要も無くなった、訳だけど。
”これ”が、或いは他の領域にも波及していく、感じ。
或いはもし?将棋の大会が「AIでの代打ち」を容認している、と言うなら。”それ”はその主催その物が、SEGAの「追い出し部屋」に成ってしまった、そう言う意味ではある。何の利益もそこには産まないからだ。”そこ”に給料を与える必要は無い、その時、それを主宰する組織は?それのコストを自腹せねばならない。
そう言う状況ではある。
あくまでも、「理屈の上で」は、だ。
将棋の神が「大衆は神である」その理念に成った、としたら。それに逆らう時、そこの評価は”そう言う意味”になる。そして、そこで発生する理屈が”そう言う物”なら。それは或いは、広く深く、あちこちへ波及していくのかもしれない。
状況はそのままに、中身だけが変わっていく訳だ。
今まで何かの権威を持っていた人々は、その権威を失ってしまう訳だ。
そして、逆もまた真なり、ではあって。
もともと、将棋の世界は”そんな物”だったのかも、しれない。「大衆」それにとっては何の意味も価値も無かった。ただ確かに、紛争解決機構、そのニュアンスはそこに有り、その意味で無視出来なかった、にしろ。SEGAと同じく、「役目」それが重荷だったそれは間違いなく、平成になって、彼らはそれを捨てて暴れ始めていた、そう言うのはある。
境目がある。「紛争解決機構」それが有るか無いか?だ。萌え美少女キャラに「これ私ですよね?」その主張と実際、でもある。追い出し部屋に行く人々は、結局は、「紛争解決機構」その存在を認めない。
”それ”は私なのだ。
それは、そう言う戦いをしている場だったのかも。