それは、民主主義の悪魔、というべき様、だろうか。
不意に気付いた、”相手”に、「現実」それは基準にならないのだ。
創価学会の名を出したから、だろうか。それとも、もっと別の要素、今販売されて話題になっているコンテンツ、その「意図」の問題だろうか。「物があるという事は、多数決では変わらない物がある、という事です」と、以前にホームページの方で書いてた事がある、が。”それ”に反発するというか、「多数決で多数がそれをあるといえばそれはあるんです」と、そういう感覚で、”現実”に立ち向かおうとしている?そんな意識が重い事に、少し考えはした。
ともかく”その”意識に、「大賀さん」それの理屈は意味を持たない。「こっちの方がいい」それでぶつかってきたことに、少し思案はする。
具体例、というべきかあるいは。
「スプラトゥーン」
主題 戦争
情景 縄張り塗りバトル
描写 TPS
注意 相手を殺しても勝てません
主張 新しいでしょう?
矛盾 戦争…
「アートスケール」を不意に当ててみた際、主題に重い疑問はある。一般論でのそれはもちろん、「相手を如何に殺すか?」ともかく敵を倒せば勝者だ!が正論であって。それだけにその衝突は凄惨を極める、物理的損失もシャレにならない、だから、そういう事は止めよう、というのが一応の「正義」だが。スプラトゥーン、このゲームの感覚がふいに、その正論を足場にしてないことに、少し驚きのようなものを感じはした。
第三者的には、誤認するそれではある。「戦争なんてこんなもの」そう、確かにばかばかしい何かだ。「戦争するよりこっちの方が」平和な世界ではある、そうであればいい。等々、「いいね」が集まっちゃう感覚がある訳だが作者(の意図)は今、そう思ってない。
「これが紛争解決機構なのだ」
これが戦争である、そう言っている。
個人的理解では、これはつまり「大賀さん」それに対して”対抗”こっちの方がいい、そう言っている、訳だ。「使える物はなんでも武器だ!」というノリでの、特攻に近い感覚なのか?は少し想像はする。否定する理由は単純だ、「”これ”は戦争じゃない」しかし、意識は多数決を背に、「大賀さん」それよりもこっちの方がいい、そういう。
”それ”に対して反論する足場が相手に存在しない事に、少し戦慄するような感覚があって。「相手」には、物理的にどうだ、という話は判断する対象にならないのだ、単に自分にとって優位か不利か、それだけだ。「大賀さん」それは自身を不利にする、それはいらない。
現状、もちろんこれは決定打にはならない、「多数決の多数派が正義だ」いや物理的事象だ!というそれはもちろん、現実の物理的事象の前に破綻する。しかし?「信仰」という奴だろうか、民主主義の強要その破綻という奴か、その意識には、動かすべき存在が100tあるという事は、諦める理由にならない。
「九尾の狐」には届かないにしろ、類型の「猫又」と評される、あるいはそんな何かではある?
いつから、何を原因に、世界に何が起きていたのだろう?ふいに、不安にはなった。