定期的に発生している「失敗」を見る度に、苦慮は蓄積はしていく。
何かの、越えられない線を不意に、意識する感覚がある。
切り捨てた方と、切り捨てられた方、だ。
「大賀さん」の無い頃、いや有る今でも、だろうか。衝突は、結局は片方の排斥、最後はそこまで至る。その時、そこに発生する断絶は、その切り捨てた部分を「悪魔」に変える、訳だ。切り捨てた側は、その悪魔を排除する事をその後の正義にし…悪魔は、或いは戻らんと、何かの知略をか、尽くし始める。その果てに何故か、双方は疲弊し、衰退を始めていく。
切り捨てを起こす原理は、それが発生する前にある「増えない」そこではあり。しかし、断絶が起きた後、”それ”が打開された時、双方の断絶それは解消するモノか?そこは不安感と共に、謎だ。
片方が死んでいたらもう、それは、取り返しがつかない。
「信仰の問題だ」と、言い切って良い話、だろうか。
負けていく人々を、意識できなくなる瞬間はあり、”それ”は今、オリンピック中である事もまた、少し理由には成っているかもしれない。「敗者への配慮」が出来なくなると言うか、”それ”は魔物でしかない、という視点しか持てない、というか。そして、再起される前に息の根を止めねば安心は無い、そんな。
その時、そこに有るのは何かの過剰、だ。そして、その先には裏切りと失望がある。
それはその人が、或いは切り捨てを肯定した時から発生した呪い、だろうか。
負けた、切り捨てられた側が”全て”悪いのである、自身に責任は無い。
それを言う人が結局は、人を二人轢き殺しても、「自分はアクセルを踏んでいない」そう言うのかもしれない訳だが。
最終的にはそれと似た様な感覚の帰結として、「失敗」、それはそこに有るのかも。
死者の呪い、だろうか。
欠落、その感覚が埋まらないのなら、それもまた、同じ帰結へと向かって行くのか。
世界だって、実際には「いらない物」があり、それを排除する事に価値、”それ”を設定している現実はある。現実の場合、具体的には「病気」病魔、それは全くその通りな何か、それとしてはある。”それ”を排除し得る物に、人は価値を設定し、それを排除した結果を持って、それは何かの換金となるが。しかしその時、独裁創作の肯定は帰結で、自身を神にし、自身にとっての不用を排除し始める、結果、それは物理的には必要なモノを捨てる事になり、それが欠落に成って、その環境を悪化させていく。
帰結は、環境の「神様」が、その切り捨てを肯定してた、そこには有る訳だけど。
とは言えその「神様」に付和雷同してた、そこに責任は無いのか?それも重くは残る。
「神様」は最近か、別の存在に「変わった」、と言う。
今は、切り捨てせずに打開し得る、筈である、と言う。
でもその時、環境の倫理は、そんなに直ぐに改善するモノか、それとも。
付和雷同し、人を切り捨てた人はその時、新たな神様に対しても付和雷同し、その趣旨を180度変えるのか?
その時、それを聞く人々は。
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