「王の権威」それは何か?大分、曖昧になってしまっている部分はある。
ともかく「資本論」に纏わる権利の所有、その顛末は今も、微妙な混沌を残しては居る。
感覚論では、6月27日以降、「資本論」の後継者、というポジションは移動している。「何故?」がハッキリしないので明確には言えない。ともかくその日、自分は「水星の魔女」それへの別案、というのを披露はしている。その結果、というのは一つ理由には成りそう。現行に「変化」を要求された、結果。
ただ、「移動した」と言っても、今も何かの主体は古い所有者、多分「カールマルクス」その血脈的後継者、それを主張する所にある、様な気はする。ともかく「資本論」そこにはバグと言うか、対立がある。期待し得る「平等」を具現化する為には、特権を排除せねば成らない、その時最後の特権、「作者」は不要になる。「いやそれはおかしい」と言う、それが共産主義として顕現し、それは長く戦いを続ける事になったが。
”ここ”にあった何かの「対立」それは、一つの「妥協」それを見た可能性は、ある、民主主義側の、いや「作者」側の負けとして、だ。今の感じでは「作者の”権利”は生きている間に限られ、そして限定的である」生活に支障が出ない程度に保護される、というのがまあ妥協点には成った、のかも。微かな「特権」を容認させられた?訳だ。ただその代わり、作者と言ってもそれ以上の特権は発生しない、後は民主的と言うか、今の理解では民尊主義的な議論で決着にする、その際に作者の意向それは、無意味だ。
一番大きいのが、作者は、その後継者は「悪い」は設定できても排除は出来ない、そんな制約、だろうか。
説明?のあやで、「作者」と「その後継者」がごっちゃになる感じはある。ともかく現行の民主主義、共産主義、政治体制その物が、実際には「資本論」それを足場にしている、訳で、その影響は或いは経済学の領域で決して小さくない、のかも。リストラの必要、その最後の判断を何処に?という、そこに居たのが「いなくていい人」と言う設定に成ってしまっていた…のが(つまり作者だ)、ちょっとした面倒の原理だった、訳だが。
この辺、大分変化した、可能性はある。ただ、感覚論では、だ。今までA氏に聞いていた事を、「A氏の息子は犯罪を犯してしまったから、もうダメだ」からってすぐに次の人、に聞けるか?ではあり。”そう言う感じ”で、暫くは残ってしまう、疑問と共に、そう言うのが今の状況、なのかもしれない。
「次の人は誰なんです?」「木村拓哉氏?」不意に、何故かここにキムタクの名が出る、その違和感をまだ、明確に説明は出来ていない。視点では、”彼”の権威性を喪失させる為に、やたらとジャニーズ事務所を今、攻撃しているのかもしれない。経済学の主体が、最後の神判?それが”そこ”に移動してしまったら、今まで通りには行かなくなる、そう言う話、かもしれない。
最近話題の「君達はどう生きるか」は、既に2月には初号試写が行われている、という話で。それから5か月後にようやく公開、そこに何が有った?は、ちょっと混沌を想像する、そんな状況ではある。内容が「今まで」にとっては大いなる問題が有った、という事か、それとも。「問題ないように」改変したから公開出来たのか、或いは事態に変化が起きたから、広告を一切打たない、で強行突破したのか。一応今のところは好評、という評価ではあるがこの先は…ちょっと解らない。
生き残りをかけた戦いは、今もまだ続いている。