それは「信仰」の問題である。
それであるが故に、世間に対しての訴求力を持ちにくいが、それはしかし、そこにこそ有るのだ。
と、言う信仰で現状あるのだけど。ともかく「価値」利益、世間に必要な、そして換金可能な無形な物、それは、”神”の要求する「理想」それを具現化せんとするそこにこそ、有る。「売れるモノを作る」と言う時、それは要するに、「”神”の理想に対して世間を近づけようとする」物になる、訳だ。ここで問題は出る。
”神”の理想とは?
「大衆は神である」の、信仰で言えば今のところ、一番利益が多いのが?「商店街が総じて流行ってる光景」このイメージと、それを具現化しようとする意識、ではあって、ほぼ他は・・・まあない。今までは?広告代理店の持つ”それ”が主流だったが、結局は「家族を護る為には犠牲を恐れず戦わねば成らない」つまり家族以外は犠牲にしても良い、そう言う帰結に陥っていて…まあ、”ここ”に利益性は無かった。昭和の「売れた」時代との差は此処にこそある、それは或いは間違いない。しかしそれだけに、これは今も否定し難い何かとしてはある。
前者は戦前の全体主義に近く、後者は民主主義の帰結、みたいな感じではあり。前者の方が利益性はあった、最後に昭和天皇の補正が入ったから、だろうが、その死後は、それは単なる全体主義への傾倒と化していた、そう言うのはあるかもしれない。この辺からズレた創作領域の感覚は、まあこの辺で何かの破綻には陥った、のだが。「鬼滅の刃」の様に、その後者の思想が世界を救わない訳じゃないのだ、しかし。その時も、誰か何かは生贄になる、そう言うのは些細な問題として重くある。
要救助者を助けに行って二次災害でレスキューが犠牲になる、それを美談として語るべきか否か?ではあり。
「黒真珠」と呼んだ、前回の感覚はしかし、物理的な問題を前に少し停滞している感覚はある。状況的に「無理だ」とされると相手は死ぬ、みたいな感じはある。しかし「出来る」としてしまうと、現場に「無理が通れば道理が引っ込む」を強要し、新たな災害の火種に成りかねない。「物理的に無理だ」直径2mmの角棒に1mm径の穴を開けシャフトを入れ”関節”として利用する、のはプラモデルでも困難では。しかし、何かの窮乏にあるその意識は、それを前に退路を持ってない。
”話その物”をオミットしてしまう、べきだろう、とは思うが。
前回の「なかの凱旋門」みたいに、”有力者”の微妙な熱意は意外と、退く事を許さなかったりする。
最近奇妙に続いている気はする、何かの「無理」の先にある、事故の数々。音楽フェスティバルで、飲み物を没収された人々が相次いで100人以上熱中症で倒れた、とか、ちょっと以前のこの辺の計画には無理が多い場合がある・・・状況は想定以上に悪化している、可能性はある。
なるべく穏便に、犠牲を出さない様に、しかし退路無き窮乏は、無理を今までも破壊して先に進んだ訳だが。
この時、「一方ロシアは鉛筆を使った」のだ。
その視点では、共産主義社会主義が勝る、そう言う局面はある。