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あげちうのブロマガ

有った筈の理想と今

「正しい初音ミクとは?」

やはり、その辺はちょっと、出てこない。

「創作領域の、”昭和の間違い”が集中している」それは、そんなキャラだ、と言うそれは良いが。結局、個人の視点として”そこ”に有るのは趣味の問題でしか、無い。「岡本太郎愛用の筆」そう言うのは有ったのだろうか?愛用のアトリエ、それが無いとも言えない、”それ”を擬人化した、として。

で?

岡本太郎の居なくなった”そこ”は、何かの意味を持つのだろうか?

この思索で、倫理観の混沌に少し補正を掛けられる、そう言うのはある。”それ”は「岡本太郎の嫁」それでは無い、それっぽい物、だ。とは言え或いは彼の亡き後、彼の意思を継続する何か、ではある。それを愛で、その意向を見ていく、それは多少なりとも意味はある。理解は出来ないにしろ、それは昭和に有った一つの巨大な存在ではあり。

ともかく、神に成らん、それは無かったろう、日本には昭和天皇が居た、今も、国への何かの依存?はある。


SEGAは、災難と言うべきか或いは、だ。エヴァンゲリオンを支え、初音ミクを支持した。残っては居ても微妙に、それは何かの混沌と共にはある。エヴァンゲリオンは何とか完結した、しかし。ゲームセンターを切り離した、それは良い結果か、或いは。

経営その物は、改善しているという話ではあるが。会社の方向性、その是非として何かの混沌を抱え続けた”それ”は、意味を考える時、重い漆黒の闇ではある。

売れれば良いのか?

”それ”は或いは、現実と等しい程の仮想現実を夢想した、そんな意向の言葉でもあったろうか。”それ”を追及する事の意味とは何か。創作、そう言うのを考える時、その世界の存在意義、それは重い命題としてはある。そしてまた、”そこ”に理由を設定し明確化せんとするそこに対しても、微妙な疑問と否定感は残る。

面白いか?

衝動と、道理の狭間かもしれない。倫理だけで言えば、世間全般が働いてる人しか居ないのに?自分は自身の衝動に向き続けて良いのか。必要性が無い物を抱え続ける必要は何処に有るのか。必要なモノじゃ無ければ人は買わない。売れる物を造ろうとしたら、そこには”それ”が存在する理由、人々に認められる”それ”は必要だ。

”それ”をダメ出しと言うべきか否か。創っている物はどんどんと、或いは「個人的視点では」味気なくなっていく感覚もある、工業製品的な、それはアートか、或いは。

もちろんその結果として、それは売れない、評価されない、埋もれていく、そう言う現実もある訳だが。

「岡本太郎の夢」それを載せている物、としてでも。初音ミクと言うのは、何だろう。

今の理解で言えば、”それ”は先が無いのだ。



使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im8043526
https://publicdomainq.net/victor-gabriel-gilbert-0056426/

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