「二十歳過ぎたら自己責任」は、自分の理解でしかないが。
それでも、現実も如何に外部的な要因が有ろうと、過失は本人の過失としてしか計上されないのかも。
今の理解では、「テレビ番組」その需要それは、「視聴者の皆様お疲れ様です」そこにある、とは言う。日々の仕事その他に疲れて帰ってきて、そしてテレビを見る。そこに映っているのは、自身らを慰労する為の仕事に従事している人々、だ。なんというか、「彼らも大変だ」そんな同意が、自身に蓄積する何かの疲労、それを軽減してくれる。或いは、ここまでしなくても良い労働で暮らせる事は幸運である、そんな。結局その為には、現場は働いてないといけない、訳だが。
「お金儲け」=「労働」ではある、のだが。価値観の問題で、そこには深刻な疑問、その壁は厚い。
或いは、現場にはブラックを要求しつつ、自身らは無理を前に逃げている、それは不愉快の起点には成る。そういう状況が、ちょっとかなり長く続いてしまった・・・それは、ちょっと深刻な過失として重いのかもしれない。
テレビが「面白くない」と言われ始めて、久しい。そこは「広告代理店」平成の始まりと共に、不意に面倒を背負わされた人々の、実際は欠損していた能力にはよるのだろうか。本来は?現場に丸投げで良かった、可能な限り視聴率を上げてもらうだけで良かった、が。番組の是非が解らない時、特に「今までにない」それは、単なる奈落にしか見えない。
そしてその是非を計れる人はその時、もういなかった訳で。
経緯は似ている、テレビも、昭和の頃から色々とケチを付けられつつ今の状態ではある。放送して良いモノとしてはいけないモノ、その境目は何処?を、平成から特に判断しにくく成っていった、そう言うのはある。無難な”仕事”に成っていく、「面白い?」惰性こそが視聴者、みたいな状態の中、視聴者の現場は窮乏していく。新しい打開を!「解らない」時、番組は現状維持を続ける事になり、衰退していく現場を前に、ただルーチンワークが続いていく、事には?
・・・それは、面白くない。見ていても、自身の生活に対して何の改善にも成らないのだ。とは言っても、昭和のコンテンツをトレースしてるだけの二次創作者らに、”その”欠点をどうにかしろ、それは無理だ。そして一次創作、というのが・・・酷く理想に反した物だった、というのも、状況の悪化には拍車をかけた訳だが。
”物理”に同調し得る奴にしか、一次創作、それは創案できなかった。
技術的に上手い、というのはその時、意味がない話だった。
納得してしまえば良かった、というのはある、幹の人間ではない、枝葉には枝葉の生き方しか出来ない。幹の人間に依存し、その周囲で美味しい汁を吸う、本来の「広告代理店」はそう言う業種だったかもしれないが。そこで幹を目指した?というのは、周囲の問題だろうか、それとも自身のプライドのせいだったろうか。
ヒットラーのしっぽは今もなお、あちこちで正論を語りつつ、燻っては居る。
ズォーダー大帝の独裁に立ち向かえ!或いはそんな正論と共に。