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あげちうのブロマガ

見たいモノと違うモノ

「お金」その物は、無尽蔵に発生はする。

という理屈の上で現実を見た時、そう成ってますか?と言う、そこに疑問はある。



先の話、「自分に対して供給するのは自分である」なら、つまり自分の創ったシステムから利益を自身に必要分だけ分配すれば良い、のだけど。単純にそうなってない?と言う事はつまり、このシステムが動いてない、と言う事か、それとも妨害、障害がある?と言う事か、そこは微妙に判断出来てない感じが、ちょっと混沌ではある。

”雅”市場の中にも、「嬬魔」と言う萌えキャラの”魔物”があり、それは”その”主観による好みで、システムを任意に歪めてしまう…のだが。結果、説明は出来ても、納得は無い、と言う状況には成る、訳だ。

嬬魔の”何か”がまだ不満の様です。

なんでやねん。


一応その辺で想像するに、表側、と認識してる領域は窮乏しているそれは現実ではある。「しうまい像」の話もそうだが、「解らない」のだ、そこに何が有ってどう言う物で何故必要か?とか、そう言う点において、創作者が。多くは「これは正しい」大事な事だ、と言う感覚の共有を持ってそれは価値とされるのに、「全く必要が無い物」それを、政府筋の?創作領域は、採用してしまう現実がある。そして或いは他を否定する。

政府筋にももう、解らない、と言う意味、だろうか、これは。

つまり、創っている、創らせている物に、価値が「無い」事しか解ってない訳だ。


ちょおまてや。


しかし逆ギレも、容易に想像する。そして、面倒さとして”それ”への反発が?或いは相手のプライド、もしくは自由意思の侵害である、と言うそこにも同意はある。「意味はない」と”解っている”学歴や権威性に固執する感覚だ、そしてそうでない人々を否定する、そういう。

”そう言う物”に支配されている、現実はそう言う状況でもある訳だが。
つまり、この領域での「創作」それは、最終的には「価値が無い」訳で。それを見ても、解るのは「解らない」事だけだ、なら、そこに求められるのは”視覚的な快楽”でしかない。次第次第に、古いコンテンツの掘り出し、エロティックさの加算、それはやむを得ない変化、かも。


”それ”を前に、自身の”雅”市場そう言うのは、どうも前に出ていない。効果も疑問視以前に、検証さえ否定されてる?様な事態。その上で、暴動の”それ”を言うのは逆に滑稽でもある訳だが。ともかく「お前らはそんな事も解らないのか?!」と言う”格下”かの罵倒を許容するよりは、「解らない」を選択する、それは、道理さえ有る現状ではあって。

デビルマンは、”そんな彼ら”を救わんとした、そんな英雄?ではある。

それはそれで、何かの需要はあり、そして或いは祈祷、それはある、のだ。

切り捨てて良い、所までは、まだ遠い、と言う事、だろうか?

 


使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im10639876
https://publicdomainq.net/hasui-kawase-0036480/

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