「売れれば良い」そこに統一性が有るなら良いが、無い訳で。
だからこそ、「ストリード」それを開発した、訳だが。目的は何でどういう物を要求しているのか、具体的には?その辺を大雑把に明確にしたオーダー書。”神”「大衆」の眼に晒す事が出来、それによりオーダーの状態での問題を、先に煮沸消毒してしまう(依頼主によっては他者を否定するとか殺すとかまで期待する向きがあるので)。”それ”を外部から得る事で、現場は「仕事として」問題ない作品を造る事が出来、創作を妨げる多くの批判を回避する事が出来る…後は技術だけだ。
という方向性がどれだけ成功してても、彼ら?には、肯定が無い。後が続かない。
シニア世代の疾患に、インベーダーゲームが繋がっている、のは確かだろう。「ハッピーエンドを望まないのは良くない」そこは、明確な否定ポイントではある。要するに”ここ”だ。シニア世代には、”そう言う物語”が苦痛だ。それよりもどんどんと悪く成って行く話の方が良い、その時、自分はその減っていく分、利益を得ている訳で。シニア世代はそう言う事でしか利益が得られない状態にはあって、だからこそ不景気になった訳だが。
この辺の感覚は、実は、太平洋戦争前から変わってないのだ。
一応、太平洋戦争の原因には、「開戦を選択した」事の問題がある。その理由は今もだ、シニア世代は今も、内需拡大、”それ”が出来ない。内需拡大さえ出来れば、無理して外国に攻め入る必要が無いのだが、当時の世相的には無理があった、だから。
「誰が悪いのか?」
この辺、当時の人々でさえも、恐らくは明言し難い何かはある。
先人の成功例を否定するのは良くない、が。インベーダーゲームそれには欠損があり、利益的には"そこ”を埋める方向は、肯定が有る。理解?で否定がある、だけだ。市場を守ろうとするなら利益性を捨てる訳には行かない。創作に利益性が有る時、それは経済全体への恩恵があり、”それ”が結論で経済を回復させる。今は、内需拡大策は明確に有るのだが、シニア世代の意識としてか、それがどうも、”駄目”だ。
「グラディウス」を創らねばならないのだが。”それ”は硫黄島の決戦にハッピーエンドを設定する様な暴挙に意識が繋がってしまう。昭和の頃は、或いは天皇陛下の肯定で抑止出来た物が今は、難しい訳だ。
「ハッピーエンドを望まないのは良くない」解っては居ても。原爆の悲劇、蹂躙された現実、負けを受け入れざるを得ない選択のミス、それにしても大きすぎる損害…それらがどうにも、我慢ならない。万人に近い憤りの渦が、何か何処か一か所で、人間以外の何かとして、人々を邪に制御している様な。
「何故我々は、あんな目に合わねば成らなかったのだろう?」
戦時中の悲劇に関して、自分らは何も言えないのだが。