何かの終わり、と言う気分には、それでも成れない状況ではある。
むしろ状況は悪化してさえいくのでは?それは常にある不安だ。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
気持ちと現実には、ちょっと著しい断絶はある訳で・・・
創価学会の教祖、池田大作氏の、訃報。前々から既に存在は消えていたし、既に死亡説も出ていたが何にせよ、正式に「死亡」と言う報道は、一つの帰結ではある。ただそれと同時に不意に、「出来損ないの無能が、使えねぇな!」その罵倒の行き先が混沌とした、感じも幾らかある。創価学会とは何だったのか、それは少し思った。
…とは言え、「パラサイトチャイルド」不意に想像した、「両親の支援無くては自立できない成人年齢の子供」そこに、状況の深刻を見るのもまた現状でありそして、”それ”に実は大きく関わってきた?可能性を考えると、それは無限ループの負の迷走を始める、そう言う事も少し思う。
彼らの境遇だ、「自分が面白いと思う事、モノを、世間は思わない」のだ。しかし?”彼ら”の主張は間違っていない、むしろ正しい。世間は彼らに一方的に恭順するように要求するが、彼らの主張に対して世間が恭順する事はない、むしろ逆だ。この時、彼らは世間に”入る”事が出来ない、間違い、切り捨て、それを容認して入ったらその先に有るのは自己の破綻でしかない。この断絶に対して、”それ”は今までにしろ、何もしなかったのだ。
解らないから。
教祖が聞いて呆れる、というべきだろうか。「解らない」それは、大きな議題だった昨今ではある。非常にマニアックな話では、「僕の考えた最強のガンプラ」みたいな奴の中にある、しかし無視できないグレードのそれ、に対する感覚。”ここ”の例で言えば内容は「人力発電機を設置したらどうか?」こういう主張に対して、世間は何も出来ない、しない。それは、今の想定と理解ではあらゆる点でメリットしかない。電気代の高騰する中、或いはそれを下げ得るアイディアかもしれないし、今ならむしろ低額で良いかもしれないし、人力ならエコだし?そして雇用対策、貧困対策でさえある。草案ではゲームセンターなどの近くに置ければ集客にさえなる、その後彼らはその稼いだお金で何かを買う可能性は高い、経済対策としてもダイレクトだ。「なんでやらないのか?」これに関して、世間は関心がない。
この視点から見たら、”外”に居るのは人の形をした何か、でしかないかも。
「カウンタ制御」も、それに拍車を掛けるし、世間は”それ”に対して沈黙を続けている。自分の主張もちょっとこの現実の前では弱い。大衆は神である、その選択は正しい。世間は、何かの権力は”それ”を無視して押さえつけ、自身らの主張?を優先している、それは世間に対して仇となる行為でしかない。その「神」の態度として、今は?そこには深刻な疑問はある訳で。
しかし、池田大作氏が死んだ、という意識の後にあるのは。「この無能」そんな罵倒の先で生まれた、創価学会という組織とそこに集う人々、という絵だったりするのかもしれない、のだが。
「神とは何か?」最後に有るのはその問いではある。多くのカルトがそうだろうが、「お前は要らない」用無し、価値は0、という罵倒の先で、”神”の救済かの末に…教祖化する訳で。民主主義が招く腫瘍の様なモノかもしれないのだ、多数決の先で切り捨てが産まれる時、その責任を問われてそして、発狂する。決めたのは?多数決なら「その時の多数派」の責任である。衆愚政治、と言えばそう、或いはその過失ある人々を「元凶」は支配し、それはカルトと成っていった、それは何故か?ではある。
「クオリティが低い」事に対して、罵倒は何処まで許容され得るのか。
結果と現状と、相変わらず、不満は負のループから抜け出せていない?