遺恨は残っている。
遺恨と言うかどうかは別だが。
ショートサーキット出張版読み上げ動画6604
「激レアなクオリティで形成されたV2ガンダム・アサルトバスター」が、4機の凡庸ガンダムに負けた、という結果の是非ではある。イメージだけで言えば、サザビーなどのファンネル搭載型で複数を相手にする事を考慮した方が良かった、かもしれないが。意外と意識と求めるガンプラ、と言うのには同調があり、それはその選択に入らない。
「運用者本人の願い」が、そのガンプラには載る訳で。
νガンダムやらではダメなのだ、そこは、V2アサルトバスターであって。
「何故?」
そう言う所に、奇妙と言うか、そこに有る真意と言うか、それが垣間見えたりする。
自身は正しい、正義は勝つのだ、じゃないとおかしい。
個人的に、Vガンダムは「ゲーム業界」そう言うイメージが有って。”そこに有った物”かもしれない。ゲームセンターは衰退していった、天皇が変わったから、だ。その変化を、当時のそれは受け入れられなかった、それはそのまま崩壊して行った。時期は「システム2」と言うゲーム基板の誕生とも重なり、まるで、そんな中で。疑問と憤怒と、そう言うのはそこに今も、何かの執着を載せている、そう言うのはある。
「負けたのだ」けど。
”そこ”からイメージを膨らませる時、V2アサルトバスター、その様は、何かの王族の意匠を彫り込んだ鎧、そんな様にも見える。
”それ”が、御供も連れずに、単機で、敵に挑む訳で。
RPGの勇者と言えば聞こえも良いが、実際のその様は、国を失った王家、そんな象徴なのかもしれない。
現状、「遊輪R」と言うゲームセンター企画は、それ相応にいい感触、のようでもある。今の、昔から続く”変化”に対応し得た訳だが。”それ”に対して、古い執着をぶつけても、そこに正義は無かった、と言う…結果は、そう言う絵だろうか。
「紛争解決機構」その是非ではある。
平成で通って、そして損害を拡大し続けた物は、今はそこで「負ける」結果には成る。
平成の始まりでは、「ペーネロペーに負けただろう」漫画の中で、だったが。今は「ガンプラバトルで負けただろう」自分で戦った結果だ、そう言う視点で責任を他者に向ける事はし難い、部分はある。
「正義は勝つ」時、どっちが正義か?だ。
昔は、何処かの偉い人の独断と偏見での決着だった。
今は、或いはボードゲームでのそれで決まる。
その時、そこに投影した理想は、無様でさえある様で負けていく訳だが。
「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」と言う小説は、そう言う小説だった。
それが今、漸くかアニメになる、そう言う時代の変化、だろうか。
ともかく、「負けた」と言う結果は、そこに有る。