多少か、今の状況で何かの恐慌に陥る感覚は、大分和らいでは、居る。
「視野範囲外に人が数千万人も居るが、”それ”を認識できない?」それは問題に成らない。
※「pixAI」にて、タイトルに幾つか加筆、プロンプトに入力して翻訳して出力。
「何観てんの?」とかが、独占欲的な発露だった場合のその後。
この”理解”その物は、「ガンダム」の存在で、元々問題には成ってない部分、だが。”多少”か、理解が得られた、的な感覚はある…という事だろうか。「”どれ”を選択するんです?」の選択が大きくなっていく、先で。「日本に居るか出ていくか、どっち?」みたいな問いに成っていく剣呑に対して、一つの解法ではある。
「ガンダムには、HGガンダムだけじゃなくて、ビヨンドグローバル・ガンダム、というのもありまして」
入口が違う結果で、その先は”別の領域”です。ただ「内部はほぼ同じ環境」です、不足は有りません。
統治として、元々天皇家があって。それがプロデューサー的ポジションである事で、”それ”に委託されて実際の治世を行う現場は「仕事」という理解を得られる事で、その不満を大分か緩和し得た…という歴史はある。とにかく「独裁者の存在」それは、長期の治世その上では「不満」を産む原動力ではあり、その結果として発生する「切り捨て」お前らだけはどうしても好かん、という”それ”も。この天皇制の構造は回避し得た、訳で。日本は結果で、この構造を2000年来維持し続けて、今に至る訳だ。兎も角、太平洋戦争前後では西洋文明の流入その他、ちょっと何かの歪みが発生して天皇をダイレクトに神にしてしまった、が。その辺は「危うく国が亡ぶ所だった」という失敗と共に再び再構築、昭和の平穏には繋がっていく、のだけど。
しかし、それでも最終的には「ここは天皇家の領土」という理解は、意外な問題を起こし始めた、というのは有るのかも知れない。ともかく昔は物理的にも東京に居ては、北海道の様子は今日明日で知る事は出来なかった。把握範囲の限界、というのがどうしても発生していく。”それ”は代表者を集める事である程度は緩和し得るがしかし、「解らない」見えない範囲、それは不安の種ではあるのだった。
その、見えない範囲をどうやって「見ている」事にするか?ではある。それに対して「テレビ」は有効に機能した、少なくとも意識的な統一性は得られた。その辺は「ガンダム」に通じていく。「ガンダムを認証する」事で、そこにあるMSがどれだけ増えても構わない、体制には成った(以前なら、要素の数だけ側室を持つ、様な事に成っていた)。その時、監視者は国民その物である、天皇家の「視界」理想の提示の上で、「文化」を見える形に形成された「モビルスーツ」等々は、如何なる領土を得ているか。自由市場経済の中でそれは、見えない、見てない、という問題を回避し得た、事には成った訳だが意味解らんな(おい)。兎も角把握する、という観点では、モビルスーツを把握してればいい、という事には成るので。国民の数は問題に成らない、という想定はあったが。
ただまあ、今気にしてる?のは、「人には8000万人以上の独裁的な統治は出来ない、しかし人口は既に億を超えている!数千万人が実は切り捨てられているんだ!」という、ちょっと強めの主観かもしれない。で、それに対して今の理解では「見えない部分は、”かむろぎ”が統制出来てますので」という事で、若干の安心は発生した、という事かもしれない(かもしれない)。天皇陛下に見えない!としても「そこはかむろぎの領域ですので」で、責任回避は可能、という意味だ。一応「認めれば」だ、かむろぎという領域があり、それは天皇陛下に見えない範囲を掌握し得る。形式的には日本の中に「別の日本」がある様な感じではあるが、かむろぎを認める事で、「見えてない」という不安は解消し得る筈だ、と。
”これ”はどうも、今の「テレビ」を中心にした恐慌、ではある。テレビがそもそも独裁体制で運営されてるらしい、事が問題の発端では?とも思う、それが8000万人以上の視聴者を意識出来ない。ともかくテレビを残しつつ、となると?「別のテレビ」を置いて、視野範囲外は”そこ”が見てる、事にすれば問題は無い、的な話。天皇家は、「HGガンダム」の他に「ビヨンドグローバルガンダム」そう言うのもある、という”理解”だけして貰えれば、天皇陛下にはそれ以上のストレスは発生しないのでは?だ。
・・・ただその時、いわゆる「テレビ」それは、今までの様な絶対の何かでは無くなる、訳だが。
そうなった方が良い、それはある。今までの理解だと「テレビがつまらない」を言っても、それは国外追放さえ意味した、訳で。”外”が無かった、訳だ。「面白くないのなら、別の”テレビ”を見たら?」番組でもチャンネルでもなく、「別のテレビ」その物へ逃げる、事が状況的に可能である、という事態に、多少か意識の変化、それはまあ、ある。
今までそれが出来なかった?のは、支配体制的な成熟度の問題ではある、だろうか。昭和を支えた「テレビ」に匹敵する構造、それが創れてない、訳だ。わざわざグレードを下げた環境に行く、のはちょっと心理的に苦痛はある。という点で、現状「存在しないモノ」とされていた「かむろぎ」そのテレビ、その環境がまあ、漸くか、”その”レベルに匹敵する成熟度か経験値、そう言うのを獲得した…みたいな、そんな雰囲気もまあ、ある。
「第二のテレビ」と言って、今のそれは問題ない、訳だ。
今のテレビが抱えきれない人々を、流刑地ではない「別の環境」に移送する、事に「問題が無い」という理解になった、のは。多少か進展、とは言えそうだが。
個人的な意識の中の騒乱とその帰結、ではある。「かむろぎ」という、世間には”全く”周知されてない大規模な流通があり、そこはしかし、今の”テレビ”に比する熟練度を持っている、と言う…それは今も、妄想に近い。
人力発電機の無い雀荘その先は、果たして。