世間は、何と或いは今も、戦っているのか?だ。
最終的には「自分の思い通りに成らない!」こそが、その原理なのだが。
ファミリーコンピュータの生みの親、上村 雅之氏が亡くなった、76歳だそう。今で言えば、「まだ若いのに」そんな年齢だ、昔の感覚じゃないが。ともかく、その喪失と、或いはその存在による物は、どういう物だったか?ではある。任天堂の開発アドバイザー、影の重鎮と言う、それの齎した影響や、或いは。
本人の、何かの憤怒と言うか、そう言うのは、残っていたのだろうか。
「王の権威の意向を下敷きにしないと、そこに利益は発生しない」と言う”それ”は、今までも想定では、多くの場面で問題にはなってきた、多くが理解と感情論の問題として。「何故成功し得たのか?」だ、それはそこに王の権威その意向があったからだ、本人だけの達成では無い。それは当時にしろ、自分でさえも、そんな現実を信じはしなかった。
そして、平成になって、何もかも崩壊していく中で、それは何を見て、感じていたか。
状況を、少なくとも自分のそれを悪化させた、”そこ”に理由は有ったろうか。
任天堂に対して強い影響を見せられる、と言う事は、ゲーム業界その物に対して”それ”が及ぶ、と言う事ではある。ゲームセンターに対しては、これほどの危機感有る存在も無かったろうか。昨日か、不意に感じた「それコンシューマゲーム機なのでは」その感覚も、一体何処から有ったモノか。それは或いは、広域的な「理想」を前に止まった、かもしれない。”その先”に、彼は意識を向けていなかった、その可能性は或いは。
ゲームセンターが無くなって家庭用ゲーム機こそがゲームのステージになる、それの何が悪いと言うんだ?
そんな感覚の、或いは彼は、その起点だったろうか。
「ゲームはゲームセンターから始まっているのだ。その場所を破壊しようと言うのは故郷を捨てるに等しい、それはダメだ」
日本的な感覚だろうか?ともかく今、ゲーム業界で”これ”が不意に、重い壁となっては居る。PS5が奇妙に隠されているのも、それが原因だろうか?そう感じる位に、これは剣呑を伴って、重い。
シニア世代、その”感覚”の問題ではある、「骨が折れるまで戦う」のだ、そして折れた後は、単なるお荷物に成る。この壁に挑む時、限度の先には良い物は無い、そう言う、それは一例に為ってしまった、のか。
親殺しは良くない、そうは思う。
それは、そう言う物だった、ろうか?
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