結構、深刻な事態かもしれない。
PS5は何故、今の様な事態に陥ったのか?だ。
今までのゲーム機と、PS5は何が違うのか?ではある。デザインは、非常に特異だ。それでいてその大きさ等を考えた時、内部的には既存のPC、その発展に過ぎないのでは?そんな気には成る。開発コストはそんなに高かったろうか?そこさえ疑問に成る時、問題はデザイン、”そこ”には集中していく、しかし。
デザイナーは、何を考えてこのデザインにしたのか?だ。少なくともPS4から、”ちょっと”変わってしまったそれは間違い、無い。「売れる様に」利益が発生するモノを、それは、ある意味で具現化はした、だろう、しかし。「それ」の意味として、そこに有る物それは、何か。
実際には、「既存の世界への反抗」そんな感じになってしまった、その結果だろうか?
”今まで”そこに有ったゲーム、その殆どが、実際には利益性が無かった、と言う面倒な話がある、「人力発電機を否定して雀荘を如何に維持するか?」をそのテーマにしてしまうから、だ、既存の世界、資本論の環境それはそう言う物だった、だから。「世界を守らねばならない」時、それは「何とかして奴隷を奴隷にし続ける方法は無いか?」”そこ”に注力していく事になる、しかし。その結果は、常にか、今までも、最悪の事態として現れては居る…京都アニメーションのそれもしかり、大阪ビル火災のそれもしかり、だ。
結論として、「今まで通り」それは、もう続かない。
という、それに対して、「従来の」ソフトウェアは、今も抵抗を続けては居る。
”それ”を、より快適な環境で動かしうる、のがPS5である、のだが。その際に有る物、”それ”は、そのソフトウェアに、その作者らに、想定してないような否定、”それ”を重く、向けてしまう。
「なんでこんな事する必要があるの?」
その時、従来を護ると言うそれは、返答として否定されてしまう。
未だに、PS5専用、というそれが無い理由、では無いだろうか。そして、市場に出回っていない、その原理では無いのか?だ。そのデザインの「理由」それが、今の事態を産んでいる。そして、”それ”への興味、それは相変わらず続いては居るのだ、必要である、より高度な環境で”それ”を動かす為には。今まで興味もなかった人々さえ、PS5は良くも悪くも視線を向けさせてしまった、そう言う面は重くあり。
その疑問の洪水を前に、設計者らは、実は耐えられていない、のかもしれない。
「売れる」それは至上命題だ、しかしその為に必要な事は?自身らの”今まで”さえも否定し断罪する、そう言う物に為ってしまう現実は、不意にそこに、対価と共に発生した、かも。それを前に、何かの選択として。
生贄を肯定しては、そこに利益は発生しない。
”それ”を持って贖罪には成らない、そう言う事はある。
「今まで」を、肯定し得るか、否か。
そしてそれは、自分にとって、改善か、或いは、だ。
その道の先に有る物、それは。
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