評価を求めるべきか、利益を求めるべきか?ではあるが。
どっちにしろ、今はその両方とも得られてない、のが「普通」ではある。
理解として「面白い」それは、「正しい」そう言う事、ではある。
その時、その「正しい」を審判するのに「神」絶対者、それは何?と言う理解が結構重要なそれとして有った、訳だが。その「面白い」を計る神として、「大衆」それは物理的に正しい、そう言う事に成った、と、不意に言って良い感覚は、ある。
大衆が「良い」と言えば、それは「面白い」のだ。
その時、作者でさえ、それに同意が無くても、だ。
だから、”これ”で良い。
と、思ってる先で大概は”なんか違う感じになってる”のが今までではあり…その辺が打開された感じもまだ、無い。反論は出来ないのだが、同意する訳じゃない、という事態はあって、それはそれで自由意識を護る、その帰結ではある。結果の責任は負います、というそれが如何に信用ならないモノでも、ともかく今までは反論がある限りはそれを否定出来なかった、と言うのはあって。今は?それは、少し微妙な認識ではある。
「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」そのラストはあれで良かったのか。
一応「正しい」と言う点では「正しい」作品としても道理的にも、は言えない事も無いしかし。「良い結果か?」は、とても言えないそんなオチではあって。しかし?マクロで見れば「自身らの保身に終始する結末」として、あれも一つの正義ではある。あえて描く必要は有ったか?は、今も謎だが。
とは言う物のもちろん、なんか超常現象で打開されましたってのも、どうなの?だが。
「シン・ウルトラマン」も、同人領域を護る、という視点では、ゾフィが地球を破壊する為にゼットンを送り込む絵も、有り得る、実際にワンダーフェスティバルは運営側の独断で、何度か中止しているのだ。”そこ”を生活圏?にしてる人々にしたら、それはとんでもない暴挙だが、実際には運営には重い負荷が掛かっていて、それに寄る話。意味を問われたら、殆どが利益性を求めてない”それ”は只の遊びに過ぎず…それは会社維持の為に利益を求める運営側の姿勢にさえ、否定を向ける様でさえ有る。正義はどっちにある?そこは、謎だ。
一応、一つの基準は言って良い。
大衆は神である。
神が認めれば、それは正しく、つまり、面白い。
自分としては故に、「鉄血のオルフェンズ」はあれで良い、そう言うしかない。この時、いわゆる「面白い」が、自身の要求とは必ずしも合致してない、という…それである事も、認めるしかない訳だが。
「カウンタ制御」はこの先にある、一つの主張か反発、ではある。
その結果、どうなったか?は、一応、理解されたとは思いたいが。
これは一応、「面白い」だろう。
こんな雰囲気のウルトラマンだったら許せるか?は、少しあるけど。