2020東京オリンピック、閉幕。
やっぱりと言うべきだったろうか、閉会式は、ちょっと騒乱にはなった。
ともかくアートスケール、それを出してみる。
「東京2020オリンピック閉会式」
主題 0解らない >は?
情景 5東京オリンピック閉会式 >うん
描写 1ダンスパフォーマンスで >なんで?
注意 1”少数派の人々”を軸に >いや
主張 1オリンピックはお祭りです>ちょいまち
矛盾 1パリ五輪は? >そこは考えてない
技術 4なんとも
個性 2こう
一般 1意味が
独自 2わからん
18点
「オリンピック開会式」が84点、という視点で考えると本当に、何だか低レベルも過ぎた、が。合計して100点前後、というそこに、状況の感覚、その問題があるのかもしれない。
普通はまあ、主題に「選手らの健闘を称えて」みたいな感じになる、だろう。そこに「解らない」とは何とも唐突と言うか。その後も、各要素が全く何のつながりも無いので…数値的には酷い絵に成ってしまう。
ともかく、”あの”開会式がダメだというなら?次はこうなる、のは道理でさえ有る。要するに、84点の開会式を否定した、その声で創るとああなる、訳だ。その「良い」のベクトルの逆を行けば、「なにこれ?」にしかならない。この時、閉会式がグダった、それは誰が悪い?と言えば、開会式を史上最低とまで評した、”世論”その物、ではある。
とは言え、一応大会そのものは相応の盛り上がりを見せた、結果からすると…何とも残念さしか残らない、そんな閉会式ではあった。
これは、或いはテレビ、というメディアの問題かもしれない。
「全ての視聴する可能性がある者を意識せねばならない」その時、84点ではもちろんか?不足がある。まず、オリンピックに興味が無い人々、また多数派では無い人々、国家への帰属意識が薄い人々、東京の隆盛は無関係な人々、そう言う人々を意識して、いない。ゲームと言うか、インターネットと言うか?その世代では、この理解に疑問だ。
そう言う人は、見なければ良いのでは。
テレビと言うメディアか、或いは「国家」と言う理解は、”それ”にまだ、病的でさえある否定がある…という事だろうか。それは、切り捨てに成る。「正義は勝つ」時、その領域では、その切り捨てられる人々の方に、妙な声の大きさ、”それ”が与えられてしまい、あの絵がそこに残る。
合計して102点、というその2点部分、だろうか、或いは、”そこ”が欠損に成る?両者の過剰と過剰が衝突し、そこは悲痛を残し、消える。
期待されるレガシーは残らない、かもしれない、そんな結果ではある。
オリンピックスタジアムの、あのモザイクな観客席、大会期間中もまるで人が居る様な雰囲気を創ってくれた、それを考えても、何とももったいない印象ではあり。
状況は、もちろん良くなっていないのだ、それは間違いない。
まだ、浮かれるには早い、という事か。
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