”それ”が一番良いなら、それを使うべきでは?というのは正論なのだが。
しかしその結果、街の中で一部の店だけが流行って他は、閑古鳥が鳴き始める。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「こんなの誰が買うんだろう?」正論な場合も、そうでない事も
「スナックバス江」と言う作品は、漫画もアニメも見てないのだけど、そこでもまた「原作者がアニメの出来に抗議」と言う話はあった、らしい。そして空気感としてはまた、「アニメ側が不服」と言う事態に成って、どうも雰囲気が剣呑、という様。前の「セクシー田中さん」も見てないから「なんか問題に成っている」くらいしか解らないのだが、流石に今回は、とは思っても、帰結は予想できない。
ともかく独裁が通ると、同じだけの反発が発生する、のは物理の定例みたいな事ではあり。自分の今の感覚では、原作者が我を通し過ぎる、事がその騒乱の原因、という事には成っている。是非はある、同意もなさそう。
今回は特に、原作側が自前でアニメにもして、現場的にも評価が有った、という事でしかし。それは極論すれば「低レベルなアニメスタッフって要らないよね」まで語る事には成ってしまう、場合が結構あって。そうやって低レベルに合わせるべき?は常々思う話だがしかし、ハイクオリティは問題を解決するか?というとむしろ火に油を注ぐ場合が殆どだったりする、というのが現在の把握。「適当」な範囲で妥協しなければ成らない、という感覚はアニメなどの集団創作の場合はまず心得だろう、しかし。少数精鋭、的な漫画や小説の現場では、どうも我慢できないという場合は多々、有る。
「何もかも自分の思い通りに!」は創作者でなくても衝動ではあるのだが、結果として出来るモノが「良いモノ」か?というと、実際は排斥を要求する、そう言う独裁者の悪癖それでしかない場合はまあ、多々。
アニメの出来に、それだけの不満が有った、という事もあるかもしれない。
ともかく毎度そんな面倒を起こす今の”そう言う物”を見る気には、まあちょっとならない訳だが。
ハイクオリティ、とはどういう?ではある。一応、道理的にも「そう言う問題を起こさないモノ」と言う視点の方が良い、気はするがしかし。結果的にガンダムで言うと「鉄血のオルフェンズ」がそれに成る、という認識の是非では、ある。今のガンダムSEEDフリーダムにしろ、「今までの作品を否定しない」と言うコンセプトは残って居て、だから、というのはある訳だが。結果的に多くの「?」は残って居る…様な、ともかく深く追求かすると欠落が見える、それに我慢できない、というのもまあ、良くある話なのだけど。
価値観だ、「商店街が総じて流行っている光景」が理想であり、”それ”に近づける、のが創作への要求である。その時、「俺が!」そう言うのは否定される、それが売れると領域全ての評価が良くなる、という作品こそが「良いモノ」ではあり、そう言うのならとびぬけて売れても問題に成らない、訳だが。現場を擁護するなら、”そう言う作品”を目指す時、あまりとんがった部分は描けない。しかしその結果作品のウケたかの部分は影を潜めてしまいファン?には不評そう言うのは、ある。
…価値観でしかない。自由市場とはクオリティを武器に他者を蹴落とし前に出る、そう言う市場である。そこで生き延びねば成らない時、それをためらうというのはむしろ自死に近い行為だ、それはそれで正論かも。
なんにせよ、こう言う話は状況の評価を下げる要素でしかない。それはそれで自死に近いのでは。そして現実的に、芦原氏は自殺までしてしまっている…”ここ”は、作者の暴走それには、現状は否定的ではあるのだが。
結果でしか解らない話だ。財布の中に一万円、ここで止めれば給料日までは持つだろうしかし。それはそれで、自由意思の結末ではあるのだが。
神はもちろんこの時、何も言わない、というか、出来ない。