今の理解では、個人的主観よりアートスケールの評点を重視した方が良い。
「良い」はあくまで利益の問題として、だが、それはでも、あまり重視されない。
少なくともメディアに載った人々の発言で、「自分が面白いと思うモノを創った」結果でのヒット、以外はほぼ、無いからだが。
”そこ”は富野監督も言っている、「自分が必要と思うモノを創っている」結果での、今のブランドではあり。売れた、という事は少なくとも「自分が納得して売った」訳で、それがヒットした結果はつまり、自分の主張が正しかった、というそれに他ならない訳だが。ここで少し、感覚の異相はある。
「自分が良いと思って売った」作品の中の、数%以下がヒットしているのであって。
「自分が良いと思って売った」だから、それがヒットした、訳じゃない事だ。
売れた人々とは、結局は「売れなかった」結果の分析や思索の結果で「正しい」を自身に蓄積していく先に、その「自分が良いと思う」それを構築した結果でのヒットであって。決して自分の欲求に忠実だった、訳では無い、”それ”は絶対条件では無い訳だ。
解っている事はある、そして、その先に分岐はある。
”そこ”までしてやります?
「やります」の人々が先へ進み、その中の数%それが、ヒット作を創る。
理屈と言うか、期待に近い話だが。全ての人々には「適性」そう言うのがあり、それに該当してこそ「面白い」楽しい、そう言うのが、ある。単純にお金の問題じゃ無く、それに向く時、その人はそこに自分を置き続ける事が出来る、訳だ。そう言うのを目指さないと、ただメディアの評価値だけを追っても、それに不満を持っても、現実は不満に満ちてしまう訳だけども。
状況を停滞させているのが”それ”だとすると、話は単純だが。
100tの大岩を退ける為の、重機も人手も無い時、それは面倒のままそこには残る。
「アートスケールを重視した方が良い」も、出来る人は、だ。”この”感覚に合わせられない、という個性も当然か存在はする。向いてない人には、どれだけの説明を尽くそうと好待遇でやらせようと失敗?する。平成の頃にしろ、”それ”を、その時台頭した思想は無視してしまった部分は強くある、そして結局、何かの不幸を累積し続けた訳だが。
「モンスターハンター」を数千時間遊んでる事がステータスだった、頃もあるのだ。
”それ”もまた、何かの無理を超えようとした思惑、その一つの形だったろうか。
無意味な事は確かに無いが、その個性に取っては目的の真逆で有る事は多々あって。それを「意味が無かった」と理解するのはその先の選択に取って大事だが、思わないのでは同じ苦痛を再び選択しかねない。
利益の為には結局、その「面白くない」は、ある程度は許容する必要、それはある。
そう言っても、「貴方は向いてないんでは」それが、何かの落第を、つまり自身の評価の下落を意味する、という感覚は…まだ重くある。
壊れてしまっていたら、もう、向き不向きも関係ない訳で。
目指していたのは何だったか。
それが解らないのでは、祈祷されても返答は難しい。
最終的には「自力で打開出来る社会」と言うのは理想の一つではあるが。
”そこ”にある歪んだ何かは、果たして。