阪神が、不意に38年ぶりの優勝、という快挙に至っていて。
何かの機運に煽られた、みたいなのもあったろうか、ちょっと今、毒が抜けた感じもある。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「売れそう」と言う時、そこにあるのはこういうイメージ、だろうか(強引)
一応、「絵美利はまだ使える」そう言う”感じ”は安定した、それは言えるのだがしかし。それだけに「それ以上必要?」それもまた、不意に重い。ちょっと結局、物理的でさえある抑止、そこにはある気はする。ASPも、”それ”が示せたのなら自分がやる必要性、それはかなり薄くなってしまった、感じだろうか。費用対効果、低コストで短期に、それは技術さえあれば可能な、”それ”はまだそこにあった訳だが。
これも似たような話、というべきだろうか。MSXの作者である西和彦氏のTwitterで、多少気になる投稿はある。意訳すると「今、かつてのMSXハードを持ってない人をお客とは認識しません」売ってしまった様な人には愛情が足りていない、そんな感じ。クラウドファンディングでMSX0を構築するお金を集めた顧客の中には、当然か持ってない人も居たんじゃなかろうか。その一部を切り捨てる発言と言うのは…是非としてどうなのか。
彼はある種の「資格」の様な物を喪失した?感じも、不意にはある。
何かの無理はあったのだろう、それは当然か、思う。当然か、昭和から続く何かの権威と言うか、神器?ニュアンスとしては”そう言う物”の保持に関わる騒乱、というかストレス、そう言うべきか。昭和の頃にメディアを賑わせた物は、今も何かの要求?望郷、そう言う物を想起させるモノ、ではあって、そこには平成では中々発生しなかった「いつまでも失われない輝き」みたいなものがあった訳だが。しかし、”それ”を持つ、という事は何かの特権と共に「義務」責務も要求される、その時。MSXの「要求」は、その所有者の意向や能力とは…少しズレていた、そう言う帰結かもしれない。
やっぱり、最終的には「一般人がゲームを創って売れる」そう言うハード、だったのでは。
漫画家の原稿用紙とペン先、と言って今通用するか?は謎だ…今だと液晶タブレット、だろうか。”それ”さえ持てば、みたいな奴としてMSXは要求された、というのが自分の理解で故に、復活という事であれば”そう言う環境”を構築する必要はある。それがでも、今の時代は非常に狭くなっているので。ちょっとそこはこの方向性で考えるべき、というのが自分の主張だがしかし。3万円もする、2インチの小さな画面で動かすMSXと言うのは、果たして?ではある。
ともかく昭和は、「利益を!」それは、あらゆる方向で要求された、そんな原理ではあり。昭和天皇の意識の問題は重く、それは特に創作分野には色濃く反映した、市場も”それ”を望んだ。その合致する部分に、神器は幾つか発生して残った、そう言うのは多分、有る。それが貧乏くさかったりお金に固執する物だったりしても、それは時代背景的にも当然な話、そして求められているモノは今だって”それ”ではあり。
現在の自分の状況では、かといって何も出来ない部分はある訳だが。
PS5の環境は、相変わらず買えそうもない。