今の理解では、バカな話ではある。結婚した時点で「勝てなくなる」のだ。
勝利を選択する限り、しかし自身の未来も無くなっていく…それはそう言う絵に成ってしまう。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力
「今月推しがピックアップガチャに入ってるから・・・」おススメが二択で負ける時
理由は「支配者としては」一夫一婦には不足があるから、ではある。単純に妻と同格な存在が現れた時、「どっち?」を選択できなくなる、というか。「片方を切らねば成らなくなる」時。それはつまり、半分を捨てる、という事には成る。ちょうど、ではあろうか。ウクライナの開戦前の状況が似ている。西側派と、親ロシア派が対立、内乱状態に陥っていた所で、ゼレンスキー大統領は新ロシア派を捨てる事になった。本来なら折衷案を模索するべき、だがそれは、「民主主義」としては出来ない選択である。
この感覚は、想像以上に「上」の方まで問題になる、様で。あの「シュレーディンガーの猫」も実際には、だ。外部からは見えない箱の中に猫が居て、何時開放されるか解らない致死性の毒がある。この時、猫は生きているのか死んでいるのか?「外から中を見れない」と言う事態は何故発生するか?というと「絶対者が人間の場合、それは見えない」から、ではある。”神様”という理解じゃないのだ、人間の最上位にも”それ”は見えないだから、「それは不確定だ」と言う事に成っている、感じ。
…え?
”ここ”の理解だから、だろうか。「大衆は神である」この現実さえも”神”の共有認識として存在しているのだ!と言う物言いからではイミフだが、仏教にも「偉い人」は居ても「神様」は居ない、という事らしく。神様=偉い人、という理解の先で、その「偉い人」がこの宇宙さえも作った、というのがまあ今の理解?ではある…よう。実際には何処か何か「違う」のだろうが、しかし末端の理解が「シュレーディンガーの猫」では、要するにでは、ある。
しかしその理解が、アインシュタインの頃からしてメディアを?認識を支配し続けている…というのは深刻な問題の様な気は、する。大河ドラマ「晴天を衝け」でも、渋沢栄一に詰め寄られた大久保利通は「我々は神だ!」と断言してるシーンがある、当時にしろ”理解”ではそう言う感じだった、訳で。少なくとも仏陀や釈迦、弥勒それは神様の名称ではある、”普通”は。しかし、仏教という思想の中ではそれは、偉い人の役職みたいな物だった、様。
その先で、最上位の”神”にしろ解らない例として、そのシュレーディンガーの猫、それはある。そして、民主主義もまた最終的には”ここ”が限度、みたいな状態では、ある、訳だ。ただ仏教の?場合釈迦を惑わす「天魔」と言う物も出ては来る、ので。追及それはその「天魔」を追い掛ける先の話だった、かもしれない。
何か?というと、理解では「中華思想の皇帝」強力な独裁者が現れると必ず発生する対抗する存在、ではあり、”そっち”の方が権力を得て世を乱す、という構図がある。その決して接点のない「天魔」との戦いが、或いは仏教、その道という概念に成った、のかもしれない…。
「限度がある」事を、何かのきっかけでか解らなくなる、追及する欲求を否定出来なくなる、そう言うのはまあ、ある。「ダークソウル3」でも、「これは駄作だ」でもいいから、止めればその地獄からは脱出出来るのだ、が。多くのプレイヤーは、何かのしこりを残し続けるのだろう、その先に道はあったのだが、と。
獲得した技術?が無駄になる様な事態を前に、或いは「道を誤ってしまう」そんな話ではある?
「民主主義」もまた、その仏教的な理解?それによって形成されたのか?ではある。そしてそれは今も、「大賀さん」自分以外の上位、その物理的選択、それを最上位とする事が出来ない、訳だ。結果、それは片方を切ってしまい?不足が発生し、社会は何かの欠落と共に衰退していく、事には。
自身の”不足”を何とか補わねば!は、衝動でさえある、このままでは自身の、或いはダークソウル3をクリアし得る技術が無意味に成ってしまう。その時に、「最後は紛争解決機構で決着にしよう」それは、目の前にある脅威を前にしては意味のない話、ではある。
これはゲームだ、現実じゃない、誰かが勝手に設定しただけの脅威でしかない。ビルが崩壊する中から一人で全ての住人を救出する術は?とか模索しても意味は無い、限度と言うのはある。
それは、その時意味のない話、ではある。
木乃伊取りがミイラになる、「字が違う」それの意味はあるか否か。