「ダークソウル3」を否定?したから、か。多少は感覚に柔和さは出る。
前に出てる人々を蹴り倒せば状況は打開出来る、訳ではない。過失は過失だ、慎重さは必要。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力
「よく来たね、ここから出るには私の言う事を聞かなきゃダメだよ?」管狐とはそう言って騙された魂の事ではある…
ともかくアクションゲームでも、「勝つ」には意識にテーマが必要だ、というのはまあ、ある。その場を支配している「正義」だ。しかしそれ故にか、先人を模したモンスターを倒すのに、必要なテーマとは何か?は深刻な疑問としてある。特に「デーモン」地獄に居るのが正義でさえある存在を、その時倒せるテーマとは何か?だ。非力な筈の少年が、有りえない敵に勝利する可能性も存在はするが。その時、そこには「正義」が有る、筈ではあって。
地獄の中で、自身も罪人としてそこに居るのに。まず敵を諫める、様なそれは深刻に無意味ではある。
売れなくて仲間割れしてる様な状況ならまだ言える事はある…もっとも「そこまで行ってない」様な連中に何が言える?ではあるのだが。ドラクエRPGは一時、間違いなくブームに成り、類型が山の様に創られほぼ消えていった、今は意外なくらいに同人にちょっと残る位ではある。システムからシナリオから、そしてバランス調整、ちゃんと作ろうとすれば”意外”とハイカロリーなジャンルではあり、ともかくそれを販売し得る状態まで作り上げた、だけでも一般人に何か言う権利は無いのだが。
しかしともかくそこに「面白くない」それは、絶対的な絶望としてはあったのだけど。
”ここ”は、まだ言える事はある、「物理的な無理の結果です」彼らが陥った様に、類型だけに「作品同士がすぐに衝突する」先で誰も居なくなっていっただけ、ではある。ゲームジャンルその物はプレイヤー”全て”を内包し得るものはあっても、そこに「独裁性」それを残してしまうと結局は、次の魔王とは勝者であるプレイヤーか、でしかない。そう言う部分を”意識”するとここは勝てる様には成る、襲ってくる彼らも物理的な現実の前に屈したからこそそこに居る、のだけども。しかし、このテーマを意識する先に有るのは「理解」ではあって。
つまり、一人でただ、快楽追及の様なノリで、前に居る奴に殴りかかっていては勝てない、という事だ。
しかしダークソウル3はその先も、その快楽追及の姿勢は崩さないまま、今度は、勝利している先人へと挑む事には。
ともかくか、前に居る障害を排除する上で今、非常に有効なのが「仕事です」”これ”ではある。実況配信者なら勝てる、理由みたいな物、だ。「このゲームをクリアしろ」その命題で対価の為に”遊んで”いるだけに過ぎない、その時、その世界の中で地獄に落ちた?ほぼ全ては、弱みを抱える事にはなる。プレイヤーキャラとは、もちろんかプレイヤーとは別の個人であって、そして多分、地獄に落ちた存在にそれを拒絶する権利は無い。しかし、多くのプレイヤーにとっては思う話だ。
なんで自分、仕事でゲーム遊んでるの?
そこには要求するモノとの、深刻な乖離はある。
或いは?自身の衝動のみ、では解らなくなる話、ではある?自分が面白いと思う物を創らねば!しかし。この時、制作側とプレイヤーには、深刻な乖離はもちろんか発生する。自分が楽しいと思えなければプレイヤーを楽しませる事は出来ない!が、まあ或いは異様な高難易度のゲーム、その存在する理由、だろうか。製作者が自分が作ってるゲームに何を求めているか、ともかく多くは示威行動に過ぎない。
こんなの創れる僕って凄いでしょう?
そこにはしかし、チベットスナギツネの群れが踵を返して逃げていく事には。
今の殆どの創作が、”これ”に陥ってしまっている、というのは多分、ある。”その中で”それでも境遇的にか「社会貢献的なテーマを抱える人々」が残って居る、のだ。家柄として、とか、自身の陥った理不尽な奈落を破壊する、とか。それでも。前に出たとしてもその先は、少し問題を抱えていく事にはなる。ともかく今、この領域で眼前の困難を突破していく為には「仕事です」そのテーマは不可欠ではあって。どうなると仕事なのか?ともかくは、対価が約束される結末を目指す時、そこには仕事の強制力はある。
このゲームを遊ぶと、クリアすると。何が得られるんです?
ともかくか。一応ダークソウル3は、「地獄から脱出する術」それを、得る事は出来た、とは思うが。
物理に逆らっては成らない。
それは、この先の生活にも不可欠な「知恵」を得られる体験ではある。もちろん、描写は何処まで正確か?は、問われる事には成るのだが。
ともかく、ダークソウル3は少し踏み込み過ぎた、それは多分。