個人的な把握ではある。
ただ、ともかく解ってる事は、インターネットを運営する側にしろ、「今まで通り」を続けたい時、利益性も大事だが、王の権威その否定もそれ以上に大事である、と言う事ではあって。
単純で剣呑な願いは、結局は「テレビを」通じて、世間に放射される事に成る。
「”王の権威”の創作を、意向を面白いと思う奴は、世界に要らない」のだ。
それがどれだけ利益性があろうと、捨てられない物はある。
…この問題は、かなり極端な事態には成ってる。
否定し続ける限り破産は明白だが、肯定する時?「自分は破綻する」のだ。
今までは王だったが、”その後”は罪人か奴隷、或いは死刑囚である。
王である事を維持し続けねば、それは死を受け入れるに等しい。
今まで!お前らは私の庇護下、どれだけの幸運を与えられたか、忘れたのか?
「今まで通り」は維持し続けねばならないのだ、伝統は大事だ、金の問題じゃない!
「天皇制」もまた、その言葉には多く肯定を持ってしまってるし、その歴史もある。
…これはやっぱり、重い枷として、そこには有る。
そんな、日常的に世間から「頼むから」剣呑を懇願される様な状態で、同時に妙なストレスもそこには有る。売れる手段を求めている、それは何か?或いは、評価されてるのに批判もされてる、それは何故か。
お金は払えないがお金は出してほしい、そう言うニュアンス。
視野範囲内には、その原理となるのはシニア世代くらいしかない、訳だが。
”それ”を否定する時、自分も実際には、「何かの足場を失う」のだ。
何故、その作品は批判されるか?は明白だ、「面白い」それを目指すからだ、しかし。何故売れないか?それは、必要になる内容じゃないからだ、特に「夫婦間の問題ない関係」など、描かれても気まずいだけだ。「みなさんお仕事ご苦労様です、私は大金ゲットしたので海外旅行に行く計画です」違う計画が知らない所で始まりそうでさえあり、そんな話を誰が喜ぶだろう?それをしかし、今の施政者側はむしろ、推奨さえする。
批判反らしには、もってこいでさえあって。
ある種の生贄をこんな風に消費しつつ、世界は何とか、都合のいい話をしようとしている。そして”元凶”とも言える「黄昏の狩人」それを持ち込んだ存在は或いはもう、病で他界してしまった、のだ。「新聞記者」の強姦致死と言う罪状を揉み消しただろう存在ももう他界し、その罪は今更問える状況でも無いが、そこには過失だけは残っている。
「大賀さん」その神判は、今もまだ、微妙だ。